れてゐるものがある。先づ思へ。嫌はれながら、共に住むことが自然だらうか。愛なくして、共に住むことが自然だらうか。
 私はむかし友達のオデン屋のオヤヂを誘つてとある酒場で酒をのんでゐた。酒場の女給がある作家の悪口を言つた。オデン屋のオヤヂは文学青年でその作家とは個人的に親しくその愛顧に対して恩義を感じてゐた。それで怒つて突然立上つて女を殴り大騒ぎをやらかしたことがある。義理人情といふものは大概この程度に不自然なものだ。殴つた当人は当然だと思ひ、正しいことをしたと思つて自慢にしてゐるのだから始末が悪い。彼が恩義を感じてゐることは彼の個人的なことであり、決して一般的な真実ではない。その特殊なつながりをもたない女が何を言つても、彼の特殊な立場とは本来交渉のないことだ。私は復讐の心情は多くの場合、このオデン屋のオヤヂの場合のやうに、どこか車の心棒が外れてゐるのだと思ふ。大概は当人自体の何か大事な心棒を歪めたり、外したまゝで気づかなかつたりして、自分の手落の感情の処理まで復讐の情熱に転嫁して甘へてゐるのではないかと思ふ。
 まもなく私と女は東京にゐられなくなつた。女の良人が刃物をふり廻しはじめたので、逃げださねばならなかつたのだ。
 私達はある地方の小都市のアパートの一室をかりて、私はたうとう女と同じ一室で暮さねばならなくなつてゐた。私は然しこれは女のカラクリであつたと思ふ。私と同じ一室に、しかも外の知り人から距《へだた》つて、二人だけで住みたいことが女のねがひであつたと思ふ。男が私の住所を突きとめ刃物をふりまはして躍りこむから、と言ふのだが、私は多分女のカラクリであらうと始めから察したので、それを私は怖れないと言ふのだが、女は無理に私をせきたてゝ、そして私は知らない町の知らない小さなアパートへ移りすむやうになつてゐた。
 私は一応従順であつた。その最大の理由は、女と別れる道徳的責任に就て自分を納得させることが出来ないからであつた。私は女を愛してゐなかつた。女は私を愛してゐた。私は「アドルフ」の中の一節だけを奇妙によく思ひだした。遊学する子供に父が訓戒するところで「女の必要があつたら金で別れることのできる女をつくれ」と言ふ一節だつた。私は、「アドルフ」を読みたいと思つた。町に小さな図書館があつたが、フランスの本はなかつた。岩波文庫の「アドルフ」はまだ出版されてゐなかつた。私は然
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