、水をひつかける、と言ひも終らず皿一杯の水をひつかけ、このヤロー、男がいきなり女の横ッ面をひつぱたく、女が下のくゞりをあけて這ひだしてきて武者ぶりつき椅子をふりあげて力まかせに男に投げつけるのだ。女は殺気立つと気違ひだつた。ガラスは割れる、徳利ははねとぶ。男はあきらめて口笛を吹いて帰つて行く。好色多淫、野犬の如くであるが、亭主にだけは妙に意地をはるのである。
男は立派な体格で、苦味走つた好男子で、汚い女にくらべれば比較にならず、客のなかでこの男ほど若くて好い男は見当らぬのだから笑はせる。天性の怠け者で、働く代りに女を食ひ物にする魂の低さが彼を卑しくしてゐた。その卑しさは女にだけは良く分り、又、事情を知る私にも分るが、ほかの人には分らない。彼がムッツリ酒をのんでゐると、知らない客は場違ひの高級の客のやうに遠慮がちになるほどだ。彼は黒眼鏡をかけてゐた。それはその男の趣味だつた。
ある夜更《よふけ》すでに三時に近づいてをり客は私と男と二人であつた。女はかなり酔つてをり、その晩は亭主を素直に泊める約束をむすんだ上で、今晩は特別私におごるからと女が一本男が一本、むりに私に徳利を押しつけた。そこへ新米の刑事が来た。新米と云つても年齢は四十近い鼻ヒゲをたてた男だ。酒をのんで露骨に女を口説きはじめたが、以前にも泊りこんだことがあるのは口説き方の様子で察しることが容易であつた。女は応じない。応じないばかりでなく、あらはに刑事をさげすんで、商売の弱味で仕方なしに身体をまかせてやるのに有難いとも思はずに、うぬぼれるな、女は酔つてゐたので婉曲に言つてゐても、露骨であつた。刑事は、その夜の泊り客は私であり、そのために、女が応じないのだと考へた。
私はそのときハイキング用の尖端にとがつた鉄のついたステッキを持つてゐた。私はステッキを放したことのない習慣で、そのかみはシンガポールで友達が十|弗《ドル》で買つたといふ高級品をついてゐたが、酔つ払つて円タクの中へ置き忘れ、つまらぬ下級品をつくよりはとハイキング用のステッキを買つてふりまはしてゐた。私の失つた藤のステッキは先がはづれて神田の店で修繕をたのんだとき、これだけの品は日本に何本もない物ですと主人が小僧女店員まで呼び集めて讃嘆して見せたほどの品物であつた。一度これだけのステッキを持つと、まがひ物の中等品は持てないのだ。
貴様、ちよつと来
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