いた。数時間前のジャン・ヴァルジャンと同じく彼女も、不幸を絶対にしりぞけようとする心的反動のうちにあった。なぜともなく全力をつくして希望をいだきはじめた。それから突然悲しい思いが起こってきた。――この前マリユスに会ってからもう三日になっていた。しかし彼女は自ら考えた。マリユスは自分の手紙を受け取ったに違いない、自分のいる所を知ったはずである、知恵のある人だから、どうにかして自分の所へきてくれるだろう。――そしてそれも確かに今日だろう、今朝かも知れない。――もうすっかり明るくなっていたが、日の光は横ざまに流れていた。まだごく早いんだろうと彼女は思った。けれどもとにかく起きなければならなかった、マリユスが来るのを迎えるために。
彼女はマリユスなしには生きておれないような気がした。そしてそれでもう充分だった。マリユスはきっと来るだろう。こないという理由は少しも認められなかった。来ることは確かだった。三日間も苦しむのは既に恐ろしいことだった。三日もマリユスに会わせないとは神様もあまりひどすぎた。けれど今は、神の残酷な悪戯たる試練もきりぬけてきたし、マリユスはきっといい消息を持ってきつつあるに違いなかった。実に青春とはそうしたものである。青春はすぐに目の涙をかわかす。悲しみを不用なものとして、それを受け入れない。青春はある未知の者の前における未来のほほえみである、しかもその未知の者は青春自身である。それが幸福であるのは自然である。その息はあたかも希望でできてるかのようである。
その上コゼットは、マリユスがやってこないのはただ一日だけだというそのことについて、彼がどんなことを言ったか、またどんな説明をしたか、それを少しも思い出すことができなかった。地に落とした一個の貨幣がいかに巧みに姿を隠すか、そしていかにうまく見えなくなってしまうかは、人の皆知るところである。観念のうちにもそういうふうに人をたぶらかすものがある。一度頭脳の片すみに潜んでしまえば、もうおしまいである、姿が見えなくなってしまう、記憶で取り押さえることができなくなる。コゼットも今、記憶を働かしてみたが少しも効がないのにじれていた。マリユスが言った言葉を忘れてしまったのは、不都合なことであり済まないことであると、彼女は思った。
彼女は寝床から出て、魂と身体と両方の斎戒を、すなわち祈祷《きとう》と化粧とをした。
やむを得ない場合には読者を婚姻の室《へや》に導くことはできるが、処女の室に導くことははばかられる。それは韻文においてもでき難いことであるが、散文においてはなおさらである。
処女の室は、まだ開かぬ花の内部である、闇《やみ》の中の白色である、閉じたる百合《ゆり》のひそやかな房《へや》で、太陽の光がのぞかぬうちは人がのぞいてはならないものである。蕾《つぼみ》のままでいる婦人は神聖なものである。自らあらわなるその清浄な寝床、自らおのれを恐れる尊い半裸体、上靴《うわぐつ》の中に逃げ込む白い足、鏡の前にも人の瞳《ひとみ》の前かのように身を隠す喉元《のどもと》、器具の軋《きし》る音や馬車の通る音にも急いで肩の上に引き上げられるシャツ、結わえられたリボン、はめられた留め金、締められた紐《ひも》、かすかなおののき、寒さや貞節から来る小さな震え、あらゆる動きに対するそれとなき恐れ、気づかわしいもののないおりにも常に感ずる軽やかな不安、暁の雲のように麗しいそれぞれの衣服の襞《ひだ》、すべてそれらのものは語るにふさわしいものではない。それを列挙するだけで既に余りあるのである。
人の目は、上りゆく星に対するよりも起き上がる若き娘の前に、いっそう敬虔《けいけん》でなければならない。手を触れることができるだけに、いっそうそっとしておくべきである。桃の実の絨毛《じゅうもう》、梅の実の粉毛、輻射状《ふくしゃじょう》の雪の結晶、粉羽におおわれてる蝶の翼、などさえも皆、自らそれと知らない処女の純潔さに比ぶれば、むしろ粗雑なものにすぎない。若き娘は夢にすぎなくて、まだ一つの像ではない。その寝所は理想のほの暗い部分のうちに隠れている。不注意な一瞥《いちべつ》はその漠《ばく》たる陰影を侵害する。そこにおいては観照も冒涜《ぼうとく》となる。
それでわれわれは、コゼットが目をさましたおりのその香ばしい多少取り乱れた姿については、少しも筆を染めないでおこう。
東方の物語が伝えるところによると、薔薇《ばら》の花は神からまっ白に作られたが、まさに開かんとする時アダムにのぞかれたので、それを羞《は》じて赤くなったという。われわれは若き娘と花とを尊むがゆえに、その前においては無作法な言を弄《ろう》し得ないのである。
コゼットは急いで装いをし、髪を梳《す》きそれを結んだ。当時の婦人は、入れ毛や芯《しん》などを用いて髷《まげ》や鬢《びん》をふくらすことをせず、髪の中に座型を入れることはなかったので、髪を結うのもごく簡単だった。それからコゼットは窓をあけ、方々を見回して、街路の一部や家の角《かど》や舗石《しきいし》の片すみなどを見ようとし、マリユスの姿が現われるのを待とうとした。しかし窓からは表は少しも見えなかった。その後庭はかなり高い壁でとり囲まれて、幾つかの表庭が少し見えるきりだった。コゼットはそれらの庭を憎らしく思い、生まれて始めて花を醜いものに思った。四つ辻《つじ》の溝《みぞ》の一端でも今は彼女の望みにいっそう叶《かな》うものだったろう。彼女は気を取り直して、あたかもマリユスが空から来るとでも思ってるように空をながめた。
すると、たちまち彼女は涙にくれた。変わりやすい気持ちのせいではなくて重苦しいものに希望の糸が切られたからだった。彼女はそういう地位にあった。彼女は何とも知れぬ恐怖を漠然《ばくぜん》と感じた。実際種々のことが空中に漂っていた。何事も確かなことはわからぬと思い、互いに会えないことは互いに失うことだと思った。そしてマリユスが空から戻って来るかも知れないという考えは、もはや喜ばしいものではなく悲しいもののように思われた。
それから、かかる暗雲の常として、静穏の気が彼女の心にまた起こってき、希望の念と、無意識的なそして神に信頼した微笑とが、心に起こってきた。
まだ家中は眠っていた。あたりは田舎《いなか》のように静かだった。窓の扉《とびら》は一つも開かれていず、門番小屋もしまっていた。トゥーサンはまだ起きていなかったし、父も眠っているのだとコゼットは自然思った。彼女は非常に苦しんだに違いない、また今もなお苦しんでいたに違いない、なぜなら、父が意地悪いことをしたと考えていたからである。しかし彼女はマリユスが必ず来ると思っていた。あれほどの光明が消えうせることは、まったくあり得べからざることだった。彼女は祈った。ある重々しい響きが時々聞こえていた。こんなに早くから大門を開けたりしめたりするのはおかしい、と彼女は言った。しかしそれは、防寨《ぼうさい》を攻撃してる大砲の響きだった。
コゼットの室《へや》の窓から数尺下の所、壁についてるまっ黒な古い蛇腹《じゃばら》の中に、燕《つばめ》の巣が一つあった。巣のふくれた所が蛇腹から少しつき出ていて、上からのぞくとその小さな楽園の中が見られた。母親は扇のように翼をひろげて雛《ひな》をおおうていた。父親は飛び上がって出て行き、それからまた戻ってきては、嘴《くちばし》の中に餌と脣《くち》づけをもたらしていた。朝日の光はその幸福な一群を金色に輝かし、増せよ[#「増せよ」に傍点]殖《ふ》えよ[#「えよ」に傍点]という自然の大法はそこにおごそかにほほえんでおり、そのやさしい神秘は朝の光栄に包まれて花を開いていた。コゼットは朝日の光を髪に受け、魂を空想のうちに浸し、内部は愛に外部は曙に輝かされ、ほとんど機械的に身をかがめて、同時にマリユスのことを思ってるのだとは自ら気づきもせずに、それらの小鳥を、その家庭を、その雌雄を、その母と雛とを、小鳥の巣から乙女心を深く乱されながらうちながめ始めた。
十一 人を殺さぬ確実なる狙撃《そげき》
襲撃軍の射撃はなお続いていた。小銃と霰弾《さんだん》とはこもごも発射された。しかし実際は大なる損害を与えなかった。ただコラント亭の正面の上部だけはひどく害を受けた。二階の窓や屋根部屋の窓は、霰弾のために無数の穴を明けられて、しだいに形を失ってきた。そこに陣取っていた戦士らは身を隠すのやむなきに至った。けれども、それは防寨攻撃の戦術上の手段であって、長く射撃を続けるのも、暴徒らに応戦さしてその弾薬をなくすためだった。暴徒らの銃火が弱ってき、もはや弾も火薬もなくなったことがわかる時に、いよいよ襲撃をやろうというのだった。しかしアンジョーラはその罠《わな》にかからなかった。防寨《ぼうさい》は少しも応戦しなかった。
兵士らの射撃が来るたびごとにガヴローシュは舌で頬《ほお》をふくらました。それは傲然《ごうぜん》たる軽蔑を示すものだった。
「うまいぞ、」と彼は言った、「どしどし着物を破ってくれ。俺《おれ》たちは繃帯《ほうたい》がいるんだ。」
クールフェーラックは効果の少ない霰弾《さんだん》を嘲《あざけ》って、大砲の方へ向かって言った。
「おい、大変むだ使いをするね。」
戦いにおいても舞踏会におけるがごとく、人は相手をほしがるものである。角面堡《かくめんほう》がかく沈黙してることは、攻撃軍に不安を与え、何か意外の変事が起こりはしないかと心配させ始めたらしい。そして彼らは、舗石《しきいし》の砦《とりで》の向こうを見届けたく思い、射撃を受けながら応戦もしないその平然たる障壁の背後には、どういうことが行なわれてるか知りたく思ったらしい。暴徒らはふいに、近くの屋根の上に日光に輝く一つの兜帽《かぶとぼう》を見いだした。ひとりの消防兵が高い煙筒に身を寄せて、偵察《ていさつ》をやってるらしかった。その視線はま上から防寨の中に落ちていた。
「あそこに困った偵察者が出てきた。」とアンジョーラは言った。
ジャン・ヴァルジャンはアンジョーラのカラビン銃を返していたが、なお自分の小銃を持っていた。
一言も口をきかずに彼は消防兵をねらった。そして一瞬の後には、その兜帽は一弾を受けて音を立てながら街路に落ちた。狼狽した兵士は急いで身を隠した。
第二の観察者がその後に現われた。それは将校だった。再び小銃に弾をこめたジャン・ヴァルジャンは、その将校をもねらい、その兜帽《かぶとぼう》を兵士の兜帽と同じ所に打ち落とした。将校もたまらずにすぐ退いてしまった。そしてこんどは、ジャン・ヴァルジャンの考えが向こうに通じたらしかった。もうだれも再び屋根の上に現われなかった。防寨《ぼうさい》の中をうかがうことはやめられた。
「なぜ殺してしまわないんだ?」とボシュエはジャン・ヴァルジャンに尋ねた。
ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。
十二 秩序の味方たる無秩序
ボシュエはコンブフェールの耳にささやいた。
「あの男は僕の言葉に返事をしない。」
「射撃をもって好意を施す男だ。」とコンブフェールは言った。
既に昔となってるその当時のことをまだ多少記憶してる人々は、郊外からきた国民兵らが暴動に対して勇敢であったことを知ってるであろう。彼らは特に一八三二年六月の戦いに熱烈で勇猛だった。パンタンやヴェルテュやキュネットなどの飲食店の主人のうちには、暴動のために「営業」を休まなければならなくなり、舞踏室が荒廃したのを見て憤激し、飲食店の秩序を保たんがために、ついに戦死した者もあった。かく中流市民的にしてまた勇壮なるこの時代には、種々の思想にもそれに身をささぐる騎士がいるとともに、種々の利益にもそれをまもる勇士がいた。動機の卑俗さは何ら行動の勇壮さを減殺しはしなかった。蓄積された貨幣の減少を回復せんがためには、銀行家らもマルセイエーズを高唱した。勘定場のためにも叙情詩的な血が流された。人々はスパルタ的な熱誠をもって、祖国の微小縮図たる店頭を防御した。
根本
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