大なる弱点がある。砲弾は一時間に六百里しか走れないが、光線は一秒に七万里走る。それがすなわち、イエス・キリストのナポレオンに勝《まさ》るところだ。」
「弾をこめ!」とアンジョーラは言った。
防寨の面は砲弾の下にどうなるであろうか。砲弾に穴をあけられるであろうか。それが問題であった。暴徒らが銃に再び弾をこめてる間に、砲兵らは大砲に弾をこめていた。
角面堡《かくめんほう》内の懸念はすこぶる大きかった。
大砲は発射された。轟然《ごうぜん》たる響きが起こった。
「ただ今!」と快活な声がした。
砲弾が防寨《ぼうさい》の上に落ちかかると同時に、ガヴローシュが防寨の中に飛び込んできた。
彼はシーニ街の方からやってきて、プティート・トリュアンドリー小路に向いてる補助の防寨を敏捷《びんしょう》に乗り越えてきたのだった。
砲弾よりもガヴローシュの方が防寨《ぼうさい》の中に騒ぎを起こした。
砲弾は雑多な破片の堆《うずたか》い中に没してしまった。せいぜい乗り合い馬車の車輪を一つこわしアンソーの古荷車を砕いたに過ぎなかった。それを見て人々は笑い出した。
「もっと打て。」とボシュエは砲兵らに叫んだ。
八 大砲の真の偉力
人々はガヴローシュの周囲に集まった。
しかし彼は何も物語る暇がなかった。マリユスは駭然《がいぜん》として彼を横の方に招いた。
「何しに戻ってきたんだ。」
「なんだって!」と少年は言った。「お前の方はどうだ?」
そして彼はおごそかな厚かましさでマリユスを見つめた。その両の目は心中にある得意の情のために一際《ひときわ》大きく輝いていた。
マリユスはきびしい調子で続けて言った。
「戻ってこいとだれが言った! 少なくとも手紙はあて名の人に渡したのか。」
手紙のことについてはガヴローシュも多少やましいところがないでもなかった。防寨に早く戻りたいので、手紙は渡したというよりもむしろ厄介払いをしたのだった。顔もよく見分けないで未知の男に託したのは多少軽率だったと、彼は自ら認めざるを得なかった。実際その男は帽子をかぶってはいなかったが、それだけでは弁解にならなかった。要するに彼は、手紙のことについては少し心苦しい点があって、マリユスの叱責《しっせき》を恐れていた。でその苦境をきりぬけるために、最も簡単な方法を取って、ひどい嘘《うそ》を言った。
「手紙は門番に渡してきた。女の人は眠っていたから、目がさめたら見るだろう。」
マリユスはその手紙を贈るについて二つの目的を持っていた、コゼットに別れを告げることと、ガヴローシュを救うこと。で彼は望みの半分だけが成就したことで満足しなければならなかった。
手紙の送達と、防寨《ぼうさい》の中にフォーシュルヴァン氏の出現と、その二つの符合が彼の頭に浮かんだ。ガヴローシュにフォーシュルヴァン氏をさし示した。
「あの人を知っているか。」
「いや。」とガヴローシュは言った。
実際ガヴローシュは、今言ったとおり、暗夜の中でジャン・ヴァルジャンを見たに過ぎなかった。
マリユスの頭の中に浮かんできた漠然《ばくぜん》たる不安な推測は、ガヴローシュの一語に消えうせた。フォーシュルヴァン氏の意見はわからないが、おそらくは共和派だろう。そうだとすれば、彼が防寨の中に現われたのも別に不思議はないわけだった。
そのうちにもうガヴローシュは、防寨の他の一端で叫んでいた。「俺《おれ》の銃をくれ!」
クールフェーラックは銃を彼に返してやった。
ガヴローシュは彼のいわゆる「仲間の者ら」に、防寨が包囲されてることを告げた。戻って来るのは非常に困難だった。戦列歩兵の一隊がプティート・トリュアンドリーに銃を組んでシーニュ街の方を監視しており、市民兵がその反対のプレーシュール街を占領していた。そして正面には軍勢の本隊が控えていた。
それだけのことを知らして、ガヴローシュは加えて言った。
「俺《おれ》が許すから、奴《やつ》らにどかんと一つ食わしてくれ。」
その間、アンジョーラは自分の狭間《はざま》の所にあって、耳を澄ましながら様子をうかがっていた。
襲撃軍の方は、砲弾の効果に不満だったのであろう、もうそれを繰り返さなかった。
一中隊の戦列歩兵が、街路の先端に現われて砲車の後ろに陣取った。彼らは街路の舗石《しきいし》をめくり、そこに舗石の小さな低い障壁をこしらえた。それは高さ一尺八寸くらいなもので、防寨に向かって作った一種の肩墻《けんしょう》だった。肩墻の左の角《かど》には、サン・ドゥニ街に集まってる郊外国民兵の縦隊の先頭が見えていた。
向こうの様子をうかがっていたアンジョーラは、弾薬車から霰弾《さんだん》の箱を引き出すような音を耳にし、また砲手長が照準を変えて砲口を少し左へ傾けるのを見た。それから砲手らは弾をこめ始めた。砲手長は自ら火繩桿を取って、それを火口に近づけた。
「頭を下げろ、壁に寄り沿え!」とアンジョーラは叫んだ。「皆|防寨《ぼうさい》に沿ってかがめ!」
ガヴローシュがきたので、部署を離れて居酒屋の前に散らばってた暴徒らは、入り乱れて防寨の方へ駆けつけた。しかしアンジョーラの命令が行なわれない前に、大砲は恐ろしい響きとともに発射された。果たしてそれは霰弾だった。
弾は角面堡《かくめんほう》の切れ目に向かって発射され、その壁の上にはね返った。その恐ろしいはね返しのために、ふたりの死者と三人の負傷者とが生じた。
もしそういうことが続いたならば、防寨はもうささえ得られない。霰弾《さんだん》は内部にはいって来る。
狼狽《ろうばい》のささやきが起こった。
「ともかくも第二発を防ごう。」とアンジョーラは言った。
そして彼はカラビン銃を低く下げ、砲手長をねらった。砲手長はその時、砲尾の上に身をかがめて、照準を正しく定めていた。
その砲手長はりっぱな砲兵軍曹で、年若く、金髪の、やさしい容貌の男だったが、恐怖すべき武器として完成するとともに、ついには戦争を絶滅すべきその武器に、ちょうどふさわしい怜悧《れいり》な様子をしていた。
アンジョーラのそばに立ってるコンブフェールは、その男をじっとながめていた。
「まったく遺憾なことだ!」とコンブフェールは言った。「こういう殺戮《さつりく》は実に恐ろしい。ああ国王がいなくなれば、戦いももうなくなるんだ。アンジョーラ、君はあの軍曹をねらっているが、どんな男かよくはわからないだろう。いいか、りっぱな青年だ、勇敢な男だ、思慮もあるらしい。若い砲兵は皆相当な教育を受けてる者どもだ。あの男には、父があり、母があり、家族があり、意中の女もあるかも知れない。多くて二十五歳より上ではない。君の兄弟かも知れないんだ。」
「僕の兄弟だ。」とアンジョーラは言った。
「そうだ、」とコンブフェールも言った、「また僕の兄弟でもある。殺すのはやめようじゃないか。」
「僕に任してくれ。なすべきことはなさなければならない。」
そして一滴の涙が、アンジョーラの大理石のような頬《ほお》を静かに流れた。
と同時に、彼はカラビン銃の引き金を引いた。一閃《いっせん》の光がほとばしった。砲手長は二度ぐるぐると回り、腕を前方に差し出し、空気を求めてるように顔を上にあげたが、それから砲車の上に横ざまに倒れ、そのまま身動きもしなかった。背中がこちらに見えていたが、そのまんなかからまっすぐに血がほとばしり出ていた。弾は胸を貫いたのである。彼は死んでいた。
彼を運び去って代わりの者を呼ばなけれはならなかった。かくて実際数分間の猶予が得られたのである。
九 昔ながらの射撃の手腕
防寨《ぼうさい》の中では種々の意見がかわされた。大砲はまた発射されようとしていた。その霰弾《さんだん》を浴びせられては十五、六分しか支持されない。その力を殺《そ》ぐことが絶対に必要だった。
アンジョーラは命令を下した。
「蒲団《ふとん》の蔽《おお》いをしなくちゃいけない。」
「蒲団はない、」とコンブフェールは言った、「皆負傷者が寝ている。」
ジャン・ヴァルジャンはひとり列から離れて、居酒屋の角《かど》の標石に腰掛け、銃を膝《ひざ》の間にはさんで、その時まで周囲に起こってることには少しも立ち交わらなかった。「銃を持っていて何にもしねえのかな、」とまわりの戦士らが言う言葉をも、耳にしないがようだった。
ところがアンジョーラの命令が下されると、彼は立ち上がった。
読者は記憶しているだろうが、一同がシャンヴルリー街にやってきた時、ひとりの婆さんは弾の来るのを予想して、蒲団《ふとん》を窓の前につるしておいた。それは屋根裏の窓で、防寨《ぼうさい》の少し外にある七階建ての人家の屋根上になっていた。蒲団は斜めに置かれ、下部は二本の物干し竿《ざお》に掛け、上部は二本の綱でつるしてあった。綱は屋根部屋の窓縁に打ち込んだ釘《くぎ》に結わえられ、遠くから見ると二本の麻糸のように見えた。防寨からながめると、その二本の綱は髪の毛ほどの細さで空に浮き出していた。
「だれか私に二連発のカラビン銃を貸してくれ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
アンジョーラはちょうど自分のカラビン銃に弾をこめたところだったので、それを彼に渡した。
ジャン・ヴァルジャンは屋根部屋の方をねらって、発射した。
蒲団の綱の一方は切れた。
蒲団はもはや一本の綱で下がってるのみだった。
ジャン・ヴァルジャンは第二発を発射した。第二の綱ははね返って窓ガラスにあたった。蒲団は二本の竿の間をすべって街路に落ちた。
防寨の中の者は喝采《かっさい》した。
人々は叫んだ。
「蒲団ができた。」
「そうだ、」とコンブフェールは言った、「しかしだれが取りに行くんだ?」
実際蒲団は防寨の外に、防御軍と攻囲軍との間に落ちたのである。しかるに砲兵軍曹の死に殺気立った兵士らは、少し以前から、立てられた舗石《しきいし》の掩蔽線《えんぺいせん》の後ろに腹ばいになり、砲手らが隊伍を整えてる間の大砲の沈黙を補うため、防寨《ぼうさい》に向かって銃火を開いていた。暴徒らの方は、弾薬をむだにしないようにそれには応戦しなかった。銃弾は防寨に当たって砕け散っていたが、街路はしきりに弾が飛んで危険だった。
ジャン・ヴァルジャンは防寨の切れ目から出て、街路にはいり、弾丸の雨の中を横ぎり、蒲団《ふとん》の所まで行き、それを拾い上げ、背中に引っかけ、そして防寨の中に戻ってきた。
彼は自らその蒲団を防寨の切れ目にあてた。しかも砲手らの目につかぬよう壁によせて掛けた。
かくして一同は霰弾《さんだん》を待った。
やがてそれはきた。
大砲は轟然《ごうぜん》たる響きとともに一発の霰弾を吐き出した。しかしこんどは少しもはね返らなかった。弾は蒲団の上に流れた。予期の効果は得られた。防寨の人々は無事であった。
「共和政府は君に感謝する。」とアンジョーラはジャン・ヴァルジャンに言った。
ボシュエは驚嘆しかつ笑った。彼は叫んだ。
「蒲団にこんな力があるのは怪《け》しからん。ぶつかる物に対するたわむ物の勝利だ。しかしとにかく、大砲の勢いをそぐ蒲団は光栄なるかなだ。」
十 黎明《れいめい》
ちょうどこの時刻に、コゼットは目をさました。
彼女の室は狭く小ぎれいで奥まっていた。家の後庭に面して、東向きの細長い窓が一つついていた。
コゼットはパリーにどんなことが起こってるか少しも知らなかった。彼女は前夜外に出なかったし、「騒ぎがもち上がってるようでございますよ」とトゥーサンが言った時には、もう自分の室《へや》に退いていた。
コゼットは少しの間しか眠らなかったが、その間は深く熟睡した。彼女は麗しい夢を見た。それはおそらく小さな寝台が純白であったせいも多少あろう。マリユスらしいだれかが、光のうちに彼女に現われた。彼女は目に太陽の光がさしたので目ざめた。そして初めはそれもなお夢の続きのような気がした。
夢から出てきたコゼットの最初の考えは、喜ばしいものだった。彼女の心はすっかり落ち着いて
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