天使の家庭ができたこと、家中喜びに満ちてること、万事よくいってること、それを私は見て、自分で言いました、汝は入るべからずと、実際私は、嘘《うそ》をつくこともでき、あなた方皆を欺くこともでき、フォーシュルヴァン氏となってることもできました。そして彼女のためである間は嘘もつきました。しかし今は私のためである以上、嘘をついてはいけないのです。なるほど私がただ黙ってさえおれば、今のまま続いていったでしょう。あなたは、だれに強《し》いられて自白するのかと私にお尋ねなさる。それは下らないものです。私の良心です。けれども、黙っているのもまたたやすいことでした。私は一晩中、黙っていようといろいろ考えてみました。あなたは私にすべてを打ち明けてくれと言われる。実際私があなたに申したことは普通のことではないので、あなたがそう言われるのも無理はありません。ところで私は一晩中、いろいろ理屈を並べてみ、至当な理由を並べてみて、できるだけの努力はしました。しかしどうしても私の力に及ばないことが二つあったのです。私の心をここにつなぎとめ釘《くぎ》付けにしこびりつかせてる綱を断ち切ることと、ひとりでいる時私に低く話しかけるある者を黙らせることとです。それで私は今朝《けさ》あなたにすべてを自白しにきました。すべてを、もしくはほとんどすべてをです。私にだけ関係したことで言う必要のないものは、胸にしまって申しません。要点は既に御存じのとおりのことです。私は自分の秘密を取り上げて、あなたの所へ持ってきました。そしてあなたの目の前に底まで開いて見せました。これは容易な決心ではなかったのです。私は終夜苦しみました。私は自ら言ってみました。これはシャンマティユー事件とは違う、自分の名前を隠したとてだれに害を及ぼすものでもない、フォーシュルヴァンという名前はあることをしてやった礼としてフォーシュルヴァン自身からもらったものである、それを自分の名前としておいてさしつかえない、あなたからいただくあの室《へや》にはいったらどんなに幸福だろう、だれの邪魔にもなるまい、自分だけの片すみに引きこもっていよう、コゼットはあなたのものであるが、私は彼女と同じ家にいることを考えていようと。そうすれば各自相応な幸福を得られるわけです。続けてフォーシュルヴァンとなっておれば、すべてはよくなるわけです。もちろんただ私の魂を別にしてはです。そうして私のまわりには喜びの光が満ち、私の魂の底だけが暗黒なばかりです。しかし人は幸福であるだけでは足りません。満足でなければいけません。そうして私はフォーシュルヴァン氏となっており、自分の本当の顔を隠し、あなたの晴れやかな心の前に私は謎《なぞ》をいだき、あなたの白日の輝きの中に私は影をいだき、何らの警告もせず善良な顔をしてあなたの家庭に徒刑場を引き入れ、もしあなたに知られたら追い払われるに違いないと考えながら、あなたと同じ食卓につき、もし召し使いたちに知られたら実に汚らわしいと言われるに違いないと思いながら、彼らから用をしてもらうことになるのです。当然あなたからきらわれるべき肱《ひじ》をあなたに接し、あなたの握手を騙《かた》り取ることになります。あなたの家では、尊い白髪と烙印《らくいん》をおされた白髪との両方に、尊敬を分かつことになります。最も親しい談話の折り、皆が互いに心の底まで打ち開いてると思ってる時に、あなたのお祖父様《じいさま》とあなた方ふたりと私と四人いっしょにいる時に、そこにはもひとり見知らぬ男がいることになります。私は自分の恐ろしい井戸の蓋《ふた》を開くまいということにばかり注意して、あなた方の生活のうちに立ち交わることになります。そうしてもはや葬られてる私が、生命のあるあなた方の邪魔にはいることになります。私は永久に彼女につきまとうことになります。あなたとコゼットと私と三人とも、緑色の帽子をかぶることになります。あなたはそれでも平然としておられますか。私は最も踏みにじられた人間にすぎません。そしてこんどは最も恐ろしい人間となるわけです。そして毎日罪悪を犯すこととなるでしょう。毎日|嘘《うそ》をつくこととなるでしょう。毎日暗夜の仮面をつけることとなるでしょう。毎日自分の汚辱をあなた方に分かつこととなるでしょう。毎日です、しかも私の愛するあなた方に、私の子供たるあなた方に、潔白なるあなた方にです。黙っているのが何でもないことでしょうか。沈黙を守っているのがわけもないことでしょうか。いえ、わけもないことではありません。沈黙が虚偽となることもあります。しかも私の虚偽、私の欺瞞《ぎまん》、私の汚辱、私の怯懦《きょうだ》、私の裏切り、私の罪悪、それを私は一滴一滴と飲み、また吐き出し、また飲み込み、夜中に終えてはまた昼に始め、そして私の朝の挨拶《あいさつ》も偽りとなり、晩の挨拶も偽りとなり、その虚偽の上に眠り、その虚偽をパンと共に食い、しかもコゼットと顔を合わせ、天使のほほえみに地獄の者のほほえみで答え、忌むべき瞞着者《まんちゃくしゃ》となるわけです。幸福になるにはどうしたらいいでしょうか。ああこの私が幸福になるには! そもそも私に幸福になる権利があるのでしょうか。私は人生の外にいる者です。」
 ジャン・ヴァルジャンは言葉を切った。マリユスは耳を傾けていた。かかる一連の思想と苦悶《くもん》との声は決して中断するものではない。ジャン・ヴァルジャンは再び声を低めたが、こんどはもう単に鈍い声ではなくて凄惨《せいさん》な声だった。
「なぜそんなことを言うのかとあなたは尋ねなさる。告発されても捜索されても追跡されてもいないではないかと、あなたは言われる。ところが事実私は告発されてるのです。捜索され、追跡されてるのです。だれからかと言えば、私自身からです。私の行く手をさえぎる者は私自身です。私は自分を引きつれ、自分を突き出し、自分を捕縛し、自分を処刑しています。人は自分自身を捕える時ほど、しかと捕えることはないものです。」
 そして彼は自分の上衣をぐっとつかんで、それをマリユスの方へ引っ張った。
「この拳《こぶし》をごらん下さい。」と彼は言い続けた。「この拳は襟《えり》をつかんでどうしても放さないようには見えませんか。ところでこれと同じも一つの拳があります。すなわち良心です。人は幸福でありたいと欲するならば、決して義務ということを了解してはいけません。なぜなら、一度義務を了解すると、義務はもう一歩も曲げないからです。あたかも了解したために罰を受けるがようにも見えます。しかし実はそうではありません。かえって報われるものです。なぜなら、義務は人を地獄の中につき入れますが、そこで人は自分のそばに神を感ずるからです。人は自分の内臓《はらわた》を引き裂くと、自分自身に対して心を安んじ得るものです。」
 そして更に痛切な音調で、彼は言い添えた。
「ポンメルシーさん、これは常識をはずれたことかも知れませんが、しかし私は正直な男です。私はあなたの目には低く堕《お》ちながら、自分の目には高く上るのです。前にも一度そういうことがありましたが、こんどほど苦しいものではありませんでした。何でもないことでした。そう、私はひとりの正直な男です。しかし私の誤ったやり方のために、もしあなたがなお続けて私を重んずるようなことになれば、私はもう正直ではなくなります。ところが今あなたは私を賤《いや》しんでいられるから、私は正直な男と言えるのです。私は一つの宿命を担《にな》っていまして、人の尊敬はただ盗んでしか得られないのですが、そういう尊敬はかえって私をはずかしめ私の内心を苦しめます。そして自ら自分を尊敬するには、人から賤しまれなければいけないのです。その時私は始めてまっすぐに立てます。私は自分の良心に服従してる一徒刑囚です。他に類もないことだとは自分でも知っています。しかしどうしたらいいのでしょう。それが事実です。私は自分自身に対して約束をしています。それを守るだけです。生涯のうちには身を縛られるようなことに出会いもすれば、義務のうちに引きずり込まれるような機会に会うこともあります。おわかりでしょう、ポンメルシーさん、私の生涯にはいろいろなことが起こったのです。」
 ジャン・ヴァルジャンはまた言葉を切りながら、自分の言葉の後口がいかにも苦《にが》いかのようにようやく唾《つば》をのみ込んで、また続けた。
「そういう嫌悪《けんお》すべきものを身に担っている場合、人はそれをひそかに他人へ分かち与えてはいけません、自分の疫病を他人に伝染さしてはいけません、気づかれないようにして他人を自分の深みへ引きずり込んではいけません、他人にまでも自分の赤い着物をまとわせてはいけません、狡猾《こうかつ》なやり方をして自分のみじめさで他人の幸福を妨げてはいけません。聖《きよ》い人々に近寄って、目に見えない自分の膿《うみ》をひそかに他人になすること、それは忌むべきことです。フォーシュルヴァンは私にその名前を貸してくれはしましたが、私にはそれを用うる権利はありません。彼は私にその名前を与えることもできましたが、私はそれを取ることができませんでした。一つの名前はすなわち一つの自己です。ところで私はひとりの田舎者にすぎませんが、このとおり少しは考えもし、少しは書物も読みました。そして物事のわきまえもあります。このとおり相当に自分の意見も表白できます。私は自分で自分を教育しました。そう確かに、他人の名前を盗み取ってその下に身を置くのは、不正直なことです。アルファベットの文字は、金入れや時計のように騙《かた》り取ることもできます。しかし、肉と骨とをそなえた偽りの名前となり、生きた偽りの鍵《かぎ》となり、錠前をこじあけて正直な人の家にはいり込み、決してまっすぐに物を見ず、いつも偸《ぬす》み見ばかりをし、自分の内部に汚辱をいだいていることは、どうして、どうして、どうして! それよりもむしろ、苦しみもだえ、血をしぼり、涙を流し、爪《つめ》で肉体をかきむしり、悩みにもだえて夜を過ごし、自分の心身を自ら食いつくす方が、よほどまさっています。そういうわけで、私はすべてをあなたに話しに参ったのです。おっしゃるとおり自ら好んでです。」
 彼は苦しい息をついて、最後の言葉を投げつけた。
「昔私は生きるために、一片のパンを盗みました。そして今日私は、生きるために一つの名前を盗みたくはありません。」
「生きるため!」とマリユスは言葉をはさんだ。「生きるためにその名前があなたに必要なわけはないでしょう。」
「ああ、あなたの言われる意味はよくわかります。」とジャン・ヴァルジャンは答えながら、幾度も続けて頭をゆるく上げ下げした。
 それから沈黙が落ちてきた。ふたりとも黙り込んで、深く考えの淵《ふち》に沈んでしまった。マリユスはテーブルのそばにすわり、折り曲げた指の一本の上に口の角をもたせていた。ジャン・ヴァルジャンは歩き回っていた。そして彼は鏡の前に立ち止まり、そこにじっとたたずんだ。それから、映ってる自分の姿も目に入れないで鏡の面をながめながら、あたかも内心の推理に答えるかのように言った。
「でも、これで私は気が安らいだ!」
 彼はまた歩き出して、室《へや》の先端まで行った。そして向き返ろうとした時、マリユスが自分の歩いてるのをながめているのに気づいた。その時彼は、名状し難い調子でマリユスに言った。
「私の足は少し引きずり加減になっています。その理由ももうおわかりでしょう。」
 それから彼はマリユスの方へすっかり向き直った。
「ところで、まあ仮りにこうなったとしたらどうでしょう、私が何にも言わず、フォーシュルヴァン氏となっており、あなたの家にはいり込み、あなたの家庭のひとりとなり、自分の室をもらい、毎朝楽しく食事をし、晩は三人で芝居に行き、私はテュイルリーの園やロアイヤル広場にポンメルシー夫人の伴をし、皆いっしょに暮らし、私も人並みの人間と思われているとします。しかるにある日、私もそこにおり、あなた方もそこにおられ、いっしょに話をし笑い合っている時に、
前へ 次へ
全62ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング