よくきて下さいました、お父さん。お手はいかがです。よろしい方で、そうではありませんか。」
 そして、自らいいと答えたのに満足しながら、彼はなお言い続けた。
「私どもはふたりでよくあなたの噂《うわさ》ばかりしています。コゼットはどんなにかあなたを慕っています。この家にあなたのお室《へや》があることもお忘れではありませんでしょうね。私どもはもうオンム・アルメ街をあまり好みません。実際もう好ましくありません。どうしてあなたはあんな街路にお移りなすったのです。あすこは、不健康で、うるさくて、きたなくて、一方の端には柵《さく》があり、寒くて、とても行けやしません。ここにお住みになったがよろしいです。今日からそうなすって下さい。そうでないとコゼットが承知しませんよ。まったくコゼットは私どもを自分の好きなとおりにするつもりでいます。あなたはあの室《へや》をごらんなすったでしょう。私どもの室のすぐわきで、庭に向いています。錠前も直してあれば、寝台も整っていて、すっかり用意ができています。ただおいでになりさえすればよろしいんです。コゼットはあなたの寝台のそばに、ユトレヒト製ビロードの大きな安楽椅子を据えて、お父様をいたわっておくれと言いました。春になるといつも、窓の正面にあるアカシアの茂みに、鶯《うぐいす》がやってきます。二カ月の間も続いております。その鶯の巣がお室《へや》の左にあって、私どものが右手にあるわけです。晩には鶯が歌い、昼間はコゼットがお話相手になります。室は日当たりも上等です。コゼットがあなたの書物も並べてあげます。クック大尉の旅行記やヴァンクーヴァーの旅行記や、何でも御入用なものを整えてあげます。たしかごく大事にしていられる小さな鞄《かばん》が一つありましたね。あのためには片すみにちゃんと置き場所をこしらえさしてあります。私の祖父はまったくあなたに心服しています。ちょうどいいお相手です。みんないっしょに住みましょう。あなたはトランプを御存じですか。もしおやりでしたら祖父はどんなに喜ぶでしょう。私が裁判所に弁論に出る時には、あなたがコゼットを散歩に連れていって下さい、昔リュクサンブールでなすったように、コゼットに腕を貸して。私どもは是非ともごく幸福にしたいときめています。それにはあなたの幸福も欠けてはいけません。ねえお父さん。そして今日は、私どもといっしょに朝食をして下さい。」
「私は、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「あなたに一つ話したいことがあるんです。私はもと徒刑囚だった身の上です。」
 およそ鋭い音は、耳に対すると同じく精神に対しても、知覚の範囲を越すことがある。フォーシュルヴァン氏の口から出た「私はもと徒刑囚だった身の上です[#「私はもと徒刑囚だった身の上です」に傍点]」という言葉は、マリユスの耳に響きはしたが、まとまった意味の範囲を越えたものだった。マリユスは了解しなかった。ただ何か言われたように思えたが、何であるかわからなかった。彼はぼんやりしてしまった。
 その時彼は、相手が恐ろしい様子をしてるのに気づいた。彼は自分の喜びに夢中になって、相手のひどく青ざめてるのがそれまで目にはいらなかった。
 ジャン・ヴァルジャンは右腕をつっていた黒布を解き、手に巻いていた包帯をはずし、親指を出して、それをマリユスに示した。
「手はなんともなっていません。」と彼は言った。
 マリユスはその親指をながめた。
「初めからなんともなかったのです。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。
 実際何らの傷痕《きずあと》もなかった。
 ジャン・ヴァルジャンは言い続けた。
「私はあなたの結婚の席にいない方がよかったのです。できるだけ出席しないようにつとめました。私は偽証をしないために、結婚の契約書に無効なものをはさまないために、署名することをのがれるために、怪我《けが》をしたと嘘《うそ》を言いました。」
 マリユスは口ごもった。
「どういうわけですか。」
「そのわけは、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「私は徒刑場にはいったことがある身だからです。」
「そんなことが!」とマリユスは恐れて叫んだ。
「ポンメルシーさん、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「私は十九年間徒刑場にいました。窃盗のためにです。次に無期徒刑に処せられました。窃盗のためにです。再犯としてです。今では脱走の身の上です。」
 マリユスはいたずらに、現実の前にたじろぎ、事実を拒み、明確を排しようとしたが、しかもその本意を屈しなければならなかった。彼はようやくいっさいを了解し始めた。そしてかかる場合の常として、言外のことまで了解した。内心にさしてきた嫌悪《けんお》すべき光に彼は戦慄《せんりつ》を覚えた。慄然《りつぜん》たる一つの観念が彼の精神を過《よ》ぎった。自分にあてられてる一つのおぞましい宿命を、未来のうちに垣間《かいま》見た。
「すべてを言って下さい、すべてを言って下さい!」と彼は叫んだ。「あなたはコゼットの父ですね。」
 そして彼は言い難い恐怖に駆られて二、三歩後ろに退《さが》った。
 ジャン・ヴァルジャンは天井まで伸び上がるかと思われるようなおごそかな態度で頭を上げた。
「今あなたは私の言うことを信じて下さらなければいけません。そして、私のような者の誓言は法廷からは受け入れられませんけれども……。」
 そこで彼はちょっと口をつぐんだ。それから一種の崇厳陰惨な力をもって、ゆっくりと一語一語力を入れて言い添えた。
「……私の言葉を信じて下さい。コゼットの父は私ですと! 神に誓って否と言います。ポンメルシー男爵、私はファヴロールの田舎者《いなかもの》です。樹木の枝切りをして生活していた者です。名前もフォーシュルヴァンではなく、ジャン・ヴァルジャンと言います。コゼットとは何の縁故もありません。御安心下さい。」
 マリユスはつぶやいた。
「だれが証明してくれましょう……。」
「私がです。私がそう言う以上は。」
 マリユスは相手をながめた。相手は沈痛で落ち着いていた。そういう静平から偽りが出ようはずはなかった。氷のごとき冷ややかさは誠実なものである。その墳墓のごとき冷然さのうちには真実が感ぜられた。
「私はあなたの言葉を信じます。」とマリユスは言った。
 ジャン・ヴァルジャンは承認するように頭を下げ、そしてまた言い続けた。
「コゼットに対して私は何の関係がありましょう。ただ通りがかりの者にすぎません。十年前までは彼女が世にいることすらも知りませんでした。なるほど私が彼女を愛していたのは本当です。既に年を取ってからごく小さな娘を見ると、それを愛したくなるものです。年を取ってくると、どの子供に対しても祖父のような気になるものです。私のような者でも人並みの心をいくらか持ってるらしいです。コゼットは孤児でした。父も母もありませんでした。それでせめて私でもあった方がよかったのです。そういうわけで私は彼女を愛し始めました。子供という者はか弱いもので、偶然出会った私のような者でもその保護者となり得ます。私はコゼットに対して保護者の務めをしてきました。私はそれくらいのことを善《よ》い行ないだと言い得ようとは思いませんが、しかしもし善い行ないだとすれば、私がそれをしたことも考えてやって下さい。私の罪を多少なりと軽くするものとして考えていただきたいです。そして今日、コゼットは私の手もとを離れ、ふたりは行路を異にすることになりました。これから以後、私はもうコゼットに対しては何の関係もなくなります。彼女はポンメルシー夫人です。彼女の保護者が変わったわけです。そしてコゼットにはそれが仕合わせです。万事好都合です。六十万フランの金については、あなたは何とも言われませんが、私から先に申し上ぐれば、それは委託されたものです。その委託金がどうして私の手にはいったか、それは問う必要はありますまい。私はただそれを返すまでです。それ以上私は人に求めらるるところはないはずです。私は自分の本名を明かして本来の自分に返りました。それは私一個に関することです。ただ私は、私がどんな人間だかあなたに知っていただきたいのです。」
 そしてジャン・ヴァルジャンはマリユスの顔を正面からじっとながめた。
 マリユスが感じたことは、ただ雑然たる連絡もないことばかりだった。宿命のある種の風は人の魂のうちにそういう波を立たせるものである。
 自分のうちのすべてのものが分散してしまうような惑乱の瞬間を知らない者は、およそ世にあるまい。そういう時人は、いつも的はずれのことをでたらめに口にする。世には突然意外なことが現われてくることもあって、人はそれにたえ得ないで、強烈な酒を飲んだように酔わされてしまう。マリユスは新たに現われてきた自分の地位に惘然《ぼうぜん》としてしまって、ほとんど相手の自白を難ずるがような口のきき方をした。
「ですが、」と彼は叫んだ、「なぜあなたはそんなことを私に言うのです。だれに強《し》いられて言うのです。自分ひとりで秘密を守っておればいいではありませんか。あなたは告発されてもいず、捜索されてもいず、追跡されてもいないではありませんか。自ら好んでそんなことを打ち明けられるのには何か理由があるでしょう。言っておしまいなさい。何かあるでしょう。どういうつもりで自白をなさるのです。どういう動機で?」
「どういう動機?」とジャン・ヴァルジャンは、マリユスに話しかけるというよりもむしろ自分自身に話しかけるような低い鈍い声で答えた。「なるほど、この囚徒が私は囚徒ですと言ったのは、どういう動機からかと、そうです、妙な動機でです。それは正直からです。不幸なことですが、私の心の中に私をつなぎ止めてる一筋の綱があります。ことに老年になるとその綱がますます丈夫になるものです。まわりの生活がすべてこわれかけてくるのに、その綱だけは頑固に残ります。もし私が、その綱を払いのけ、それを断ち切り、その結び目を解くか切り捨てるかして、遠くへ立ち去ることができてたら、私は救われたでしょう。ただ出立つするだけでよかったでしょう。ブーロア街に駅馬車もあります。そうすれば、あなたは幸福になり、私は行ってしまうだけです。で私はその綱を切ろうとつとめ、引きのけようとしたが、綱は丈夫で、中々切れるどころではなく、私の心をいっしょに引きもぎろうとするのです。その時私は、他の所へ行って生活することはできないと思いました。どうしても他へは行けません。で、なるほどあなたの言われるのは道理です、私はばかです。このまま黙ってここにいればいいわけです。あなたは私に室《へや》を一つ与えて下さるし、ポンメルシー夫人は私を愛して、あの人をいたわっておくれと安楽椅子《あんらくいす》に言って下さるし、あなたのお祖父《じい》様は私がここにいさえすればよろしいとおっしゃるし、私がそのお相手となり、皆いっしょに住みいっしょに食事をし、私はコゼット……いやごめん下さい、つい口癖になってるものですから、で私はポンメルシー夫人に腕を貸し、皆同じ屋根、同じ食卓、同じ火、冬には暖炉の同じ片すみに集まり、夏にはいっしょに散歩をする。実に喜ばしいことで、実に楽しいことで、それ以上のことはありません。そして一家族のように暮らしてゆく、一家族のように!」
 その言葉を発して、ジャン・ヴァルジャンはにわかに荒々しくなった。彼は両腕を組み、あたかもそこに深い穴でも掘ろうとしてるように足下の床《ゆか》をにらみつけ、声は急に激しくなった。
「一家族! いや。私には家族はない。私はあなたの家族のひとりではありません。およそ人間の家族にはいるべき者でありません。人が自分の家とする所では、どこへ行っても私はよけいな者となるのです。世にはたくさんの家庭があるが、私が加わり得る家庭はありません。私は不幸な者です。社会の外にほうり出されてる人間です。父母があったとさえも思えないくらいです。私があの娘さんを結婚さした日、私のすべては終わりました。彼女が幸福であること、愛する人といっしょにいること、親切な御老人がおらるること、ふたりの
前へ 次へ
全62ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング