して、その聖《きよ》い顔の上に人間の至福の反映を浮かべているのを、おそらく人は見るであろう。もしその極致の瞬間に、歓喜に眩惑《げんわく》せるふたりの者が、他にだれもいないと信じつつも耳を澄ますならば、飛びかわす翼の音を室の中に聞くであろう。完全なる幸福は、天使をも参与させるものである。その小さな暗い寝所は、全天空を天井としている。愛に聖《きよ》められた二つの脣《くちびる》が、創造のために相接する時、その得も言えぬ脣《くち》づけの上には、星辰《せいしん》の広漠《こうばく》たる神秘のうちに、必ずや一つの震えが起こるに相違ない。
それらの幸福こそ真正なるものである。それらの喜悦を外にしては真の喜悦は存しない。愛、そこにこそ唯一の恍惚《こうこつ》たる喜びがある。他のすべては皆嘆きである。
愛しもしくは愛した、それで充分である。更に求むることをやめよ。人生の暗い襞《ひだ》のうちに見いだされ得る真珠は、ただそれのみである。愛することは成就することである。
三 側《そば》より離さざる物
ジャン・ヴァルジャンはどうなったか?
コゼットのやさしい命令で笑顔をしたあと間もなく、だれからも注意を向けられていないのに乗じて、ジャン・ヴァルジャンは立ち上がり、人に気づかれぬうちに次の間《ま》へ退いた。八カ月以前に、彼が泥《どろ》と血と埃《ほこり》とでまっ黒になって、祖父のもとへその孫を運んではいってきたのも、やはりその同じ室《へや》へであった。今やその古い壁板は、緑葉と花とで飾られていた。かつてマリユスが横たえられた安楽椅子《あんらくいす》には、音楽師らが集まっていた。黒い上衣と短いズボンと白い靴足袋《くつたび》と白い手袋とをつけたバスクは、これから出そうとする皿のまわりにそれぞれ薔薇《ばら》の花を配っていた。ジャン・ヴァルジャンは首につった腕を彼に示し、席をはずす理由を伝えてくれるように頼んで、そこを出て行った。
食堂の窓は街路に面していた。ジャン・ヴァルジャンはしばらく、それらの明るい窓の下の影の中に、身動きもしないでたたずんでいた。彼は耳を澄ました。祝宴の混雑した物音が伝わってきた。祖父の堂々たる声高な言葉、バイオリンの響き、皿やコップの音、哄笑《こうしょう》の声、などが聞こえてきた。そして彼はその愉快な騒ぎの中に、コゼットの楽しいやさしい声を聞き分けた。
彼はフィーユ・デュ・カルヴェール街を去って、オンム・アルメ街へ帰っていった。
帰ってゆくのに彼は、サン・ルイ街とキュルテュール・サント・カトリーヌ街とブラン・マントー教会堂の方の道筋を取った。それは少し遠回りの道だったが、三カ月以前から、ヴィエイユ・デュ・タンプル街の混雑と泥濘《でいねい》とを避けるために、コゼットと共にオンム・アルメ街からフィーユ・デュ・カルヴェール街へ行くのに、毎日通いなれた道筋であった。
コゼットが通りつけたその道は、彼に他の道筋を取らせなかった。
ジャン・ヴァルジャンは自分の家に戻った。蝋燭《ろうそく》をともして階段を上っていった。部屋はがらんとしていた。トゥーサンももういなかった。ジャン・ヴァルジャンの足音は、室《へや》の中にいつもより高く響いた。戸棚《とだな》は皆開かれていた。彼はコゼットの室へはいった。寝台には敷き布もなかった。綾布《あやぬの》の枕は枕掛けもレース飾りもなくなって、床の下《しも》の方にたたまれてる夜具の上にのせてあり、床はむき出しになってもうだれも寝られないようになっていた。コゼットが大事にしていた細々した婦人用の器物は、皆持ってゆかれていた。残ってるのはただ、大きな家具と四方の壁ばかりだった。トゥーサンの寝床も同じように取り片づけてあった。ただ一つの寝床だけが用意されていて、だれかを待ってるようだった。それはジャン・ヴァルジャンの寝床だった。
ジャン・ヴァルジャンは壁をながめ、戸棚《とだな》の二、三の戸を閉ざし、室《へや》から室へと歩き回った。
それから彼は自分の室にはいり、テーブルの上に燭台《しょくだい》を置いた。
彼はつるしていた腕をはずし、別に痛みもしないかのようにその右手を使っていた。
彼は自分の寝台に近寄った。そして彼の目は、偶然にかまたは意あってか、コゼットがうらやんでたつき物[#「つき物」に傍点]の上に、決して彼のそばを離れない小さな鞄《かばん》の上に落ちた。六月四日オンム・アルメ街にやってきた時、彼はそれを枕頭《まくらもと》の小卓の上に置いていた。彼はすばしこくその小卓の所へ行き、ポケットから一つの鍵《かぎ》を取り出し、そして鞄を開いた。
彼はその中から、十年前コゼットがモンフェルメイュを去る時につけていた衣裳を、静かに取り出した。第一に小さな黒い長衣、次に黒い襟巻《えりま》き、次にコゼットの足はごく小さいので今でもまだはけそうな丈夫な粗末な子供靴《こどもぐつ》、次にごく厚い綾織《あやお》りの下着、次にメリヤスの裳衣、次にポケットのついてる胸掛け、それから毛糸の靴足袋《くつたび》。その靴足袋には、小さな脛《はぎ》の形がまだかわいく残っていて、ほとんどジャン・ヴァルジャンの掌《たなごころ》の長さほどしかなかった。それらのものは皆黒い色だった。彼女のためにそれらの衣裳をモンフェルメイュまで持ってってやったのは彼だった。今彼はそれらを鞄から取り出しては、一々寝床の上に並べた。彼は考え込んでいた。昔のことを思い起こしていた。冬で、ごく寒い十二月のことだった。彼女はぼろを着て半ば裸のまま震えていた。そのあわれな小さな足は木靴をはいてまっかになっていた。彼ジャン・ヴァルジャンは、それらの破れ物を脱がせて、この喪服をつけさしてやった。彼女の母も、彼女が自分のために喪服をつけるのを見、ことに相当な服装をして暖かにしてるのを見ては、墓の中できっと喜んだに違いなかった。また彼はモンフェルメイュの森のことを思い出していた。コゼットと彼とはふたりいっしょにその森を通っていった。天気のこと、葉の落ちた樹木のこと、小鳥のいない木立ちのこと、太陽の見えない空のこと、それでもなお楽しかったこと、などが皆思い出された。そして今彼はそれらの小さな衣類を寝床の上に並べ、襟巻《えりま》きを裳衣のそばに置き、靴足袋《くつたび》を靴のそばに置き、下着を長衣のそばに置き、それらを一つ一つながめた。あの時彼女はまだごく小さかった。大きな人形を腕に抱き、ルイ金貨をこの胸掛けのポケットに入れ、そして笑っていた。ふたりは手を取り合って歩いた。彼女が頼りとする者は、世にただ彼ひとりだった。
そこまで考えた時、ジャン・ヴァルジャンの敬すべき白髪の頭は寝床の上にたれ、その堅忍な老いた心は張り裂け、その顔はコゼットの衣裳の中に埋ってしまった。もしその時階段を通る者があったら、激しいすすり泣きの声が耳に聞こえたであろう。
四 きわみなき苦悶《くもん》
われわれが既にその多くの局面をながめてきた古い恐るべき争闘が、再び始まった。
ヤコブが天使と争ったのはただ一夜だけであった。しかるに痛ましくも、ジャン・ヴァルジャンが暗黒の中で自分の本心とつかみ合って猛烈に争うのを、幾度吾人は見たことであろう!
実に異常な争闘であった。ある時は足がすべり、ある時は足下の地面がくずれた。善へ進まんとあせる本心が、彼をつかみ彼を圧倒したことも、幾度であったろう。一歩も譲らない真理が、彼の胸を膝《ひざ》の下に押さえつけたことも、幾度であったろう。彼が光明から投げ倒されてその宥恕《ゆうじょ》を願ったことも、幾度であったろう。彼のうちにまた彼の上に司教からともされた仮借なき光明が、盲目ならんと欲する彼を強《し》いて眩惑《げんわく》さしたことも、幾度であったろう。巖《いわお》に身をささえ、詭弁《きべん》によりかかり、塵にまみれ、あるいは本心を自分の下に打ち倒し、あるいは本心から打ち倒されながら、争闘のうちに彼が立ち直ったことも、幾度であったろう。曖昧《あいまい》な理屈を立てた後、利己心の一見道理あるらしい狡猾《こうかつ》な論法を用いた後、憤った本心から「奸佞《かんねい》の徒、みじめなる奴、」と耳に叫ばれるのを彼が聞いたのも、幾度であったろう。頑迷《がんめい》なる彼の思想が、瞭然《りょうぜん》たる義務の下に痙攣的《けいれんてき》なうめきを発したのも、幾度であったろう。神に対する抗争。暗い汗。多くの秘密な傷、彼ひとりだけが感ずる多くの出血。彼の痛ましい生が受くる多くの擦《す》り傷。血にまみれ、傷におおわれ、身を砕かれ、光に照らされ、心に絶望の念をいだき、魂に清朗の気をたたえて、彼がまた起き上がったのも、幾度であったろう。敗者でありながら彼は勝者のように感じていた。そして彼の本心は、彼を挫《くじ》き苦しめ打ち折った後、恐ろしい煌々《こうこう》たる落ち着いた姿をして彼の上につっ立ち、彼に言った、「今は平和に歩くがいい!」
しかし、かく陰惨な争闘から出てきた後では、それもいかに悲しい平和であったことか!
けれどもその晩ジャン・ヴァルジャンは、最後の戦いをしてるような心地になった。
痛切な一つの問題が現われていた。
定められた運命はまっすぐなものではない。それは当の人間の前にまっすぐな大道となって開けゆくものではない。行き止まりもあり、袋庭もあり、まっくらな曲がり角《かど》もあり、多くの道が交錯してる不安な四《よ》つ辻《つじ》もある。ジャン・ヴァルジャンは今、それらの四つ辻のうち最も危険なものに立ち止まっていた。
彼は善と悪との最後の交差点に到達していた。その暗黒な接合点を眼前に見ていた。そしてこんども、他の痛ましい変転の折既に幾度か起こったように、二つの道が前に開けていた。一つは彼を誘惑し、一つは彼を恐れさした。いずれを取るべきであるか?
彼を恐れさする道の方を、神秘な指先がさし示していた。その指こそは、影の中に目を定めるたびごとに万人が認め得るところのものである。
ジャン・ヴァルジャンはなお一度、恐るべき港とほほえめる陥穽《かんせい》とのいずれかを選択しなければならなかった。
それでは、魂は癒《いや》され得るが運命はいかんともし難いということは、果たして真実なのか。不治の宿命! 恐るべきことである。
彼の前に現われた問題とは、次のようなものであった。
ジャン・ヴァルジャンはコゼットとマリユスとの幸福に対していかなる態度を取らんとしていたのか。しかもその幸福たるや、彼が自ら望み、彼が自ら作ってやったものである。彼はその幸福を自分の内臓のうちにしまい込んでいたが、今やそれを取り出してながめていた。そして、自分の胸から血煙を立てる短刀を引きぬきながらその上におのれの製作銘を認むる刀剣師のような一種の満足を、彼は感じ得るのであった。
コゼットはマリユスを得、マリユスはコゼットを所有していた。彼らはすべてを、富をさえも得ていた。しかもそれは彼が自らなしてやった業だった。
しかし、今現に存在し今そこにあるその幸福に対して、彼ジャン・ヴァルジャンはどうしようとしていたのか。彼はその幸福の仲間にはいってもよかったであろうか。それを自分のものであるかのように取り扱ってもよかったであろうか。確かにコゼットは他人のものであった。しかし彼ジャン・ヴァルジャンは、自分が保有し得るだけのものをコゼットから保有してもよかったであろうか、推定されたものではあるがしかし大切にされていた父たるの地位に、彼は今までどおり止まっていてもさしつかえなかったであろうか。平然としてコゼットの家にはいり込んでもよかったであろうか。その未来の中に自分の過去を、一言も明かさずに持ち込んでもよかったであろうか。当然であるかのようにそこに出てゆき、素性を隠しながらその輝く炉辺にすわっても、さしつかえなかったであろうか。彼らの潔《きよ》い手を自分の悲惨な手のうちに、ほほえみながら取ってもよかったであろうか。ジルノルマン家の客間の平和な炉火の前に、法律の不名誉な影をあとに引きずってる自分
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