を忘れた上きげんで、端から端まで笑いさざめいていた。
食後の茶菓子の時になって、ジルノルマン氏はたち上がり、九十二歳の高齢のために手が震えるのでこぼれないようにと、半分ばかり注がしたシャンパンの杯を取り、新夫婦の健康を祝した。
「お前たちは二度の説教をのがれることはできない。」と彼は声を張り上げた。「朝に司祭の説教があり、晩に祖父の説教があるのだ。まあわしの言うことを聞くがいい。わしはお前たちに一つの戒めを与える、それは互いに熱愛せよということだ。わしはくどくど泣き言を並べないで、すぐに結論に飛んでゆく、すなわち幸福なれというのだ。万物のうちで賢いのはただ鳩《はと》だけである。ところが哲学者らは言う、汝の喜びを節せよと。しかるにわしは言う、汝の喜びを奔放ならしめよと。むちゃくちゃにのぼせ上がるがいい、有頂天になるがいい。哲学者どもの言うことは阿呆《あほ》の至りだ。彼らの哲学なんかはその喉《のど》の中につき戻すがいいのだ。かおりが多すぎ、開いた薔薇《ばら》の花が多すぎ、歌ってる鶯《うぐいす》が多すぎ、緑の木の葉が多すぎ、人生に曙が多すぎる、などということがあり得ようか。互いに愛しすぎるということがあり得ようか。互いに気に入りすぎるということがあり得ようか。気をつけるがいい、エステル、お前はあまりにきれいすぎる、気をつけるがいい、ネモラン、お前はあまりに麗しすぎる([#ここから割り注]訳者注 フロリアンの牧歌中の若い女と男[#ここで割り注終わり])、などというのは何というばかげたことだ。互いに惑わしよろこばし夢中にならせすぎるということがあり得るものか。あまり上きげんすぎるということがあり得るものか。あまり幸福すぎるということがあり得るものか。汝の喜びを節せよだと、ばかな。哲学者どもを打ち倒すべしだ。知恵はすなわち歓喜なり、歓喜せよ、歓喜すべし。いったいわれわれは、善良だから幸福なのか、もしくは幸福だから善良なのか? サンシー金剛石は、アルレー・ド・サンシーの所有だったからサンシーといわれるのか、またはサン・シー([#ここから割り注]百六[#ここで割り注終わり])カラットの重さがあるからサンシーと言われるのか? そういうことはわしにはわからない。人生はそんな問題で満ちている。ただ大切なのは、サンシー金剛石を所有することだ、幸福を所有することだ。おとなしく幸福にしているがいい。太陽に盲従するがいい。太陽とは何であるか? それは愛だ。愛と言わば婦人だ。ああそこにこそ全能の力はあるんだ。それが婦人だ。この過激派のマリユスに聞いてみるがいい、彼がこのコゼットという小さな暴君の奴隷《どれい》でないかどうかを。しかも甘んじてそうなってるではないか。実に婦人なるかなだ。ロベスピエールのごとき者でさえ長く地位を保つことはできない。常に婦人が君臨するのだ。わしがまだ王党だというのも、この婦人の王位に対してのことだ。アダムは何であるか? それはイブの王国だ。イヴにとっては八九年([#ここから割り注]一七八九年[#ここで割り注終わり])の事変なんかはない。百合《ゆり》の花を冠した国王の笏《しゃく》はあった、地球を上にのせた皇帝の笏はあった、鉄でできたシャールマーニュ大帝の笏はあった、黄金でできたルイ大王の笏はあった、けれども革命は、親指と人差し指とで、一文のねうちもない藁屑《わらくず》のようにそれらをへし折ってしまった。廃せられ砕かれ地に投ぜられて、もはや笏はなくなっている。ところが、蘭麝《らんじゃ》のかおりを立てる刺繍《ししゅう》した小さなハンカチに対して、革命をやれるならやってみるがいい。一つ見たいものだ。やってみなさい。なぜそれが強固かと言えば、一片の布だからだ。ああ諸君は十九世紀ですね。どうです。われわれは十八世紀の者です。そしてわれわれも諸君と同じくらいにばかであった。しかし諸君は、ころり[#「ころり」に傍点]がコレラ病と言われるようになり、ブーレ踊りがカチューシャ舞踏と言われるようになったからと言って、世界に大変化をきたしたと思ってはいけません。根本においては、常に婦人を愛せざるを得ないでしょう。その原則からはだれだってなかなか出られるものではない。それらの鬼女がわれわれの天使である。そうだ、愛と婦人と脣《くち》づけ、その世界からだれも出られるものではない。わしはむしろそこにはいりたいと思うくらいだ。ヴィーナスの星([#ここから割り注]金星[#ここで割り注終わり])が、天空の偉大な洒落女《しゃれおんな》が、大洋のセリメーヌが、あらゆるものをおのれの下に静めながら、海の波濤《はとう》をも一婦人のように物ともしないで、無窮の空に上ってゆくのを、諸君のうちに見られた方がありますか。大洋はすなわち謹厳なアルセストです([#ここから割り注]訳者注 モリエールの戯曲「人間ぎらい」中の主人公にてセリメーヌはその中の嬌艶な女[#ここで割り注終わり])。ところで彼がいかに苦《にが》い顔をしていようと、ヴィーナス([#ここから割り注]愛の神[#ここで割り注終わり])が現われてくれば、ほほえまざるを得ないのである。この粗暴な獣も屈服してしまう。われわれにしても同じことだ。憤怒、暴風、雷鳴、天井まで水沫《しぶき》が飛んでいようと、ひとりの婦人が舞台に現わるれば、一つの星が上ってくれば、平伏してしまうのである。マリユスは六カ月前には戦争をしていた。しかるに今日は結婚をしている。それは結構なことだ。マリユス、そうだとも、コゼット、お前たちのやることはもっともだ。大胆にふたり頼り合って生きてゆくがいい、互いに恋し合うがいい、さんざん他の者をうらやませるがいい、互いに崇拝し合うがいい。お前たちふたりの嘴《くちばし》で、地上にありとあらゆる幸福の藁屑《わらくず》をつまみ取って、それで生涯の巣を作るがいい。愛し愛さるることは、若い時には麗しい奇蹟のような気がするものだ。だがそれは、自分たちが始めて考え出したことだと思ってはいけない。このわしもやはり夢をみたり、思いを走《は》せたり、憧《あこが》れをいだいたりしたことがある。わしもやはり、月のように輝いた魂を自分のものにしたことがある。恋愛は六千歳の子供だ。恋愛は長い白髯《はくぜん》をつけてもいい者なんだ。メトセラ([#ここから割り注]訳者注 ノアの祖父にて九百六十九年生きたと言わるる人物[#ここで割り注終わり])もキューピッドに比ぶれば鼻たらし小僧にすぎない。六十世紀も前から男女は互いに愛しながら困難をきりぬけてきた。狡猾《こうかつ》な悪魔は人間をきらい始めたが、いっそう狡猾な人間は女を愛し始めた。そうして、悪魔から受ける災いよりもいっそう多くのいいことをした。この妙策は、地上の楽園の初めから見いだされていたのである。この発明は古くからのものだが、いつまでも新しいものである。それを利用しなければいけない。フィレモンとボーシスになるまでは、まずダフニスとクロエになるがいい([#ここから割り注]訳者注 前者は近代のオペラの中のふたりの恋人、後者はギリシャの物語の中のふたりの恋人[#ここで割り注終わり])。お前たちがふたりいっしょにいさえすれば、何も不足なものはなく、コゼットはマリユスにとって太陽となり、マリユスはコゼットにとって全世界となる、そういうふうでなくてはいかん。コゼット、夫のほほえみをお前の晴天とするがいい、マリユス、妻の涙をお前の雨とするがいい。そして願わくば、お前たちの家庭に決して雨が降らないようにな。お前たちは恋愛結婚といういい籤《くじ》を引きあてた。その大変な賞品を得たのだから、それを大事にし、鍵《かぎ》をかけてしまって置き、やたらに使ってしまわないで、互いに愛し合い、その他のことは顧みないでいい。わしが言うことをよく心に止めておかなくてはいかん。これは良識《ボンサンス》だ。良識は決して人を誤るものではない。互いに信仰し合わなくてはいかん。だれにでも神を拝む独特のやり方があるものだ。ところで神を拝む最もいい方法は、自分の妻を愛することだ。私はお前を愛する! というのがわしの教理要領だ。だれでも愛を持ってるものはすなわち正教派だ。アンリ四世の誓投詞では飽食と酩酊《めいてい》との間に神聖というものが置かれていた。すなわち酔っ払いの神聖なる腹!([#ここから割り注]訳者注 語気を強めるために、よし、畜生、などというのと同じ意味のもの[#ここで割り注終わり])しかしわしはそういう宗派ではない。それには婦人が忘れられてる。アンリ四世の誓投詞にそういうことがあるのはわしの意外とするところだ。諸君、婦人なるかなです。人はわしを老人だと言う。しかし不思議にもわしは自分ながら若返ってくるような気がする。わしは森の中に行って睦言《むつごと》を聞きたいくらいだ。麗しく幸福である道を心得てるそれらの若者どもは、わしの心を酔わしてくれる。もしだれか見たいというなら、すてきな結婚をしてみせてもいい。いずれの点から考えても、神がわれわれ人間を作ったのは、こういうことをさせるためだったに違いない、すなわち、夢中にかわいがり、喋々喃々《ちょうちょうなんなん》し、美しく着飾り、鳩のようになり、牡鶏《おんどり》のようになり、朝から晩まで恋愛をつっつき回し、かわいい妻のうちに自分の姿を映してみ、得意になり、意気揚々として、反《そ》りくり返ることだ。それが人生の目的である。御免を被って申せば、われわれ老人がまだ若い頃一般に考えていたことは、そういうようなことだった。ああその頃は、いかにあでやかな女が、愛くるしい顔ややさしい姿が、たくさんいたことだろう! わしはその中を荒し回ったものだ。すべからく互いに愛し合うべし。もし愛し合うことがなかったならば、春があったとて何の役に立つかわしにはわからない。そうなったらわしはむしろ神に願って、神がわれわれに示してくれる美しいものを皆寄せ集め、それをわれわれから取り戻し、花や小鳥やきれいな娘を、再びその箱に閉じ込めてもらいたいくらいだ。子供たちよ、この好々爺《こうこうや》の祝福を受けてくれ。」
その一晩の饗宴《きょうえん》は、にぎやかで快活で楽しいものだった。一座を支配する祖父の上きげんさは、すべてのものの基調となり、各人はほとんど百歳に近い老人のへだてない態度に調子を合わしていた。舞踏も少し行なわれ、また盛んに談笑された。甘えっ児の婚礼だった。高砂《たかさご》の爺《じい》さんを招いてもいいほどだった。それにまた、高砂の爺さんはジルノルマン老人のうちに含まれていた。
かくて大騒ぎをした後に、静寂《せいじゃく》が落ちてきた。
新夫婦は退いていった。
十二時少し前に、ジルノルマン家は寺院のようにひっそりとなった。
ここでわれわれは筆を止めよう。結婚の夜の入り口には、ひとりの天使が立っていて、ほほえみながら口に指をあてている。
愛の祝典があげらるる聖殿に対しては、人の魂は瞑想《めいそう》にはいってゆく。
それらの人家の上には光輝があるに違いない。その中にこもってる喜びは、光となって石の壁を通し、ほんのりと暗黒を照らすに違いない。その運命に関する神聖な祝いは、必ずや天国的な光明を無窮のうちに送るに相違ない。愛は男女の融合が行なわれる崇高な坩堝《るつぼ》である。一体と三体と極体と、人間の三位一体がそれから出てくる。かく二つの魂が一つとなって生まれ出ることは、影にとっては感動すべきことに違いない。愛する男はひとりの牧師である。歓喜せる処女はびっくりする。かかる喜悦のあるものは神のもとまで達する。真に結婚がある所には、すなわち恋愛がある所には、理想もそれに交じってくる。結婚の床は、暗闇《くらやみ》の中の一隅に曙《あけぼの》を作り出す。もし上界の恐るべきまた麗しい象《かたち》を肉眼で見得るものとするならば、夜の形象が、翼のある見知らぬ者らが、目に見えない境を過《よ》ぎりゆく青色の者らが、身をかがめて、輝く人家のまわりに暗い頭を寄せ集め、満足し祝福しつつ、処女の新婦を互いにさし示し、やさしい驚きの様子を
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