弾《さんだん》の下に歌を歌ってるガヴローシュの声を聞き、エポニーヌの額の冷たさを脣《くちびる》の下に感じた。アンジョーラ、クールフェーラック、ジャン・プルーヴェール、コンブフェール、ボシュエ、グランテール、などすべての友人らが、彼の前に立ち現われ、次いでまた消えうせてしまった。それらの、親しい、悲しい、勇敢な、麗しい、あるいは悲壮な者らは、皆夢であったのか? 彼らは実際存在していたのか? 暴動はすべてを硝煙のうちに巻き込んでしまっていた。それらの大なる苦熱は大なる幻を作り出す。彼は自ら問い、自ら憶測し、消えうせたそれらの現実に対して眩暈《げんうん》を感じた。彼らは皆どこにいるのか。皆死んでしまったというのは真実であるか。彼を除いたすべての者は暗黒の中に墜落してしまっていた。それはあたかも芝居の幕のうしろに隠れたことのように彼には思われた。人生にもかく幕のおりることがある。神は次の場面へと去ってゆく。
そして彼自身は、やはり同じ人間なのか。貧しかったのに富有となった。孤独だったのに家庭の人となった。望みを失ってたのにコゼットを娶《めと》ることとなった。彼は墳墓を通ってきたような気がした。暗黒な姿で墳墓にはいり込み、純白な姿でそこから出てきたような気がした。しかもその墳墓の中に、他の者は皆残ってるのである。ある時には、それら過去の人々がまた現われてき、彼の周囲に立ち並んで彼を陰鬱《いんうつ》になした。その時彼はコゼットのことを考えて、また心が朗らかになるのだった。その災いを消散させるには、コゼットを思う幸福だけで充分だった。
フォーシュルヴァン氏もそれら消えうせた人々のうちにほとんどはいっていた。防寨《ぼうさい》にいたフォーシュルヴァン氏が、肉と骨とをそなえまじめな顔をしてコゼットのそばにすわってるこのフォーシュルヴァン氏と同一人であるとは、マリユスには信じ難かった。第一の方はおそらく、長い間の昏迷《こんめい》のうちに現滅した悪夢の一つであろう。その上、ふたりともきわめて謹厳な性格だったので、マリユスはフォーシュルヴァン氏に向かって何か聞き糺《ただ》すこともでき難かった。聞き糺《ただ》してみようという考えさえ彼には浮かばなかった。ふたりの間のそういう妙なへだたりは、前に既に指摘しておいたとおりである。
ふたりとも共通の秘密を持っていながら、一種の黙契によって、そのことについては互いに一言も交じえない。そういう事実は案外たくさん世にあるものである。
ただ一度、マリユスは探りを入れてみたことがあった。彼は会話の中にシャンヴルリー街のことを持ち出して、フォーシュルヴァン氏の方へ向きながら言った。
「あなたはあの街路《まち》をよく御存じでしょうね。」
「どの街路ですか。」
「シャンヴルリー街です。」
「そういう名前については別に何の考えも浮かびませんが。」とフォーシュルヴァン氏は最も自然らしい調子で答えた。
答えは街路の名前についてであって、街路そのものについてではなかったが、それでもマリユスはよく了解できるような気がした。
「まさしく自分は夢をみたのだ。」とマリユスは考えた。「幻覚を起こしたのだ。だれか似た者がいたのだろう。フォーシュルヴァン氏はあすこにいたのではない。」
八 行方《ゆくえ》不明のふたりの男
歓喜の情はきわめて大きかったけれども、マリユスの他の気がかりを全然消すことはできなかった。
結婚の準備が整えられてる間に、定まった日を待ちながら、彼は人を使って困難な既往の穿鑿《せんさく》を細密になさした。
彼は諸方面に恩を被っていた。父のためのもあれば、自分自身のためのもあった。
まずテナルディエがいた。また彼マリユスをジルノルマン氏のもとへ運んでくれた未知の人がいた。
マリユスはそのふたりの者を探し出そうとつとめた。結婚し幸福になって彼らのことを忘れようとは思わなかった。その恩を報じなければ、これから光り輝いたものとなる自分の生活に影がさしはしないかを恐れた。その負債をいつまでも遅滞さしておくことは彼にはできなかった。楽しく未来にはいってゆく前に過去の負いめを皆済ましたいと願った。
たといテナルディエは悪漢であろうとも、そのためにポンメルシー大佐を救ったという事実を少しも曇らせはしなかった。テナルディエは世の中のだれにとっても一個の盗賊だったが、マリユスにとってだけはそうでなかった。
そしてマリユスは、ワーテルローの戦場の実景についてはまったく無知だったので、父はテナルディエに対して、生命の恩にはなってるが感謝の義務はないという妙な地位に立ってる特別の事情を、少しも知らなかった。
マリユスは種々の人に頼んだが、だれもテナルディエの行方《ゆくえ》をさがしあてることはできなかった。その踪跡《そうせき》はまったくわからなくなってるらしかった。テナルディエの女房は予審中に監獄で死んでいた。その嘆かわしい一家のうちで生き残ってるのはテナルディエと娘のアゼルマだけだったが、ふたりとも暗黒の中に没し去っていた。社会の不可知なる深淵《しんえん》は再び黙々として彼らの上を鎖《とざ》していた。その深淵の面には、何かが陥ったことを示してくれ、また錘《おもり》を投ずべき場所を示してくれるような、揺るぎや、震えや、かすかな丸い波紋さえも、もはや見られなくなっていた。
テナルディエの女房は死に、ブーラトリュエルは免訴となり、クラクズーは消えうせ、おもな被告は脱走してしまったので、ゴルボー屋敷の待ち伏せの裁判はほとんど空《くう》に終わってしまった。事件はかなり曖昧《あいまい》のままになっていた。重罪裁判廷はふたりの従犯人で満足しなければならなかった。すなわちパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユとドゥミ・リアール一名ドゥー・ミリアールとであって、ふたりとも審理の上十年の徒刑に処せられた。脱走した不在の共犯人らに対しては、無期徒刑が宣告された。頭目であって主犯者たるテナルディエは、同じく欠席裁判所によって死刑を宣告された。テナルディエに関して世に残ってるものは、その宣告だけで、あたかも柩《ひつぎ》のそばに立ってる蝋燭《ろうそく》のように、彼の葬られた名前の上に凄惨《せいさん》な光を投じていた。
その上この処刑は、再び捕縛される恐れのためにテナルディエを最後の深みへ追いやってしまったので、彼をおおう暗黒をいっそう深からしめるのみだった。
もひとりの男に関しては、すなわちマリユスを救ってくれた無名の男に関しては、初めのうち多少捜索の結果が上がったけれど、それから急に行き止まってしまった。すなわち、六月六日の夜フィーユ・デュカルヴェール街へマリユスを乗せてきた辻馬車《つじばしゃ》を見いだすことができた。その御者の言うところはこうであった。六月六日、シャン・ゼリゼー川岸通りの大溝渠《だいこうきょ》の出口の上で、午後の三時から夜まで、ある警官の命令で彼は「客待ち」をしていた。午後の九時ごろ、川の汀《みぎわ》についてる下水道の鉄格子口《てつごうしぐち》が開いた。ひとりの男がそこから出てきて、死んでるらしい他の男を肩にかついでいた。そこに番をしていた警官は、生きている男を捕え、死んでいる男を押さえた。警官の命令で、御者は「その人たち」を馬車に乗せた。最初フィーユ・デュ・カルヴェール街へ行った。死んでる男はそこでおろされた。その死んでる男というのはマリユス氏であった。「こんどは」生きていたけれども、御者は確かに見覚えていた。それからふたりはまた彼の馬車に乗った。彼は馬に鞭《むち》をあてた。古文書館の門から数歩の所で、止まれと声をかけられた。その街路で彼は金をもらって返された。警官はもひとりの男をどこかへ連れて行った。それ以上のことは少しも知らない。その晩は非常に暗かった。
前に言ったとおり、マリユスは何にも覚えていなかった。防寨《ぼうさい》の中であおむけに倒れかかる時背後から力強い手でとらえられたことだけを、ようやく思い出した。それから何にもわからなくなった。意識を回復したのはジルノルマン氏の家においてだった。
彼は推測に迷った。
御者の言う男が彼自身であることは疑いなかった。けれども、シャンヴルリー街で倒れてアンヴァリード橋近くのセーヌ川の汀《みぎわ》で警官から拾い上げられたとは、どうしたのであったろうか。だれかが彼を市場町からシャン・ゼリゼーまで運んでくれたには違いなかった。だがどうして? 下水道を通ってか。それにしては驚くべき献身的な行為である。
だれかしら。だれだろうか?
マリユスがさがしてるのはその男であった。
彼の救い主であるその男については、何にもわからず、何らの踪跡《そうせき》もなく、少しの手掛かりもなかった。
マリユスは警察の方には内々にせざるを得なかったが、それでもついに警視庁にまで探索を進めてみた。しかしそこでも他の所と同じく、何ら光明ある消息は得られなかった。警視庁では辻馬車《つじばしゃ》の御者ほどもその事件を知っていなかった。六月六日|大溝渠《だいこうきょ》の鉄の扉《とびら》の所でなされた捕縛などということは少しも知られていなかった。その件については何ら警官の報告も届いていなかった。警視庁ではそれを作り話だと見なした。それを捏造《ねつぞう》したのは御者だとされた。御者というものは、少し金をもらいたいと思えば何でもやる、想像の話でもこしらえる。とは言うものの、その事柄はいかにも確からしかった。マリユスはそれを疑い得なかった。少なくとも、上に述べたとおり、自分がその男だということは疑い得なかった。
その不思議な謎においてはすべてが不可解だった。
その男、気絶したマリユスをかついで大溝渠《だいこうきょ》の鉄格子口《てつごうしぐち》から出て来るのを御者が見たというその不思議な男、ひとりの暴徒を救助してる現行を見張りの警官から押さえられたというその不思議な男、彼はいったいどうなったのか? 警官自身はどうなったのか? なぜその警官は口をつぐんでいたのであろうか。男はうまく逃走してしまったのであろうか。彼は警官を買収したのであろうか。マリユスがあらん限りの恩になってるその男は、なぜ生きてるしるしだに伝えてこなかったのか。その私心のない行ないは、その献身的な行ないにも劣らず驚くべきものだった。なぜその男は再び出てこなかったのか。おそらく彼はいかなる報酬を受けてもなお足りなかったのかも知れないが、しかしだれも感謝を受けて不足だとするはずはない。彼は死んだのであろうか、どういう人であったろうか、どういう顔をしていたのか? それを言い得る者はひとりもなかった。その晩は非常に暗かったと御者は答えた。バスクとニコレットとはすっかり狼狽《ろうばい》して、血にまみれた若主人にしか目を注がなかった。ただ、マリユスの悲惨な帰着を蝋燭《ろうそく》で照らしていた門番だけが、問題の男の顔をながめたのであるが、その語るところはこれだけだった、「その人は恐ろしい姿だった。」
マリユスは探査の助けにもと思って、祖父のもとへ運ばれてきた時身につけていた血に染んだ服をそのまま取って置かした。上衣を調べてみると、裾《すそ》が妙なふうに裂けていた。その一片がなくなっていた。
ある晩マリユスは、その不思議なできごとや、試みてみた数限りない探査や、あらゆる努力が無効に終わったことなどを、コゼットとジャン・ヴァルジャンとの前で話した。ところが「フォーシュルヴァン氏」の冷淡な顔つきは彼をいら立たした。彼はほとんど憤怒の震えを帯びてる強い調子で叫んだ。
「そうです、その人はたといどんな人であったにせよ、崇高な人です。あなたはその人のしたことがわかりますか。その人は天使のようにやってきたのです。戦いの最中に飛び込んでき、私を奪い去り、下水道の蓋《ふた》をあけ、その中に私を引きずり込み、私をになって行かなければならなかったのです。恐ろしい地下の廊下を、頭をかがめ、身体を曲げ、暗黒の中を、汚水の中を、一里半以上も、背に一つの死骸《
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