ごそかなまたやさしい清朗の気にまったく打たれてしまった。かく我を忘れさせる瞬間もよくあるものである。そういう時、苦悩は不幸なる者をわずらわすのをやめる。すべては思念の中に姿を潜める。平和の気は夢想する者を夜のようにおおう。そして輝く薄明の下に、光をちりばむる空をまねて、人の魂も星に満たされる。ジャン・ヴァルジャンは頭の上に漂ってるその輝く広い影をうちながめざるを得なかった。彼は思いにふけりながら永劫《えいごう》の空のおごそかな静寂のうちに、恍惚と祈念との情をもって浸り込んだ。それから急に、あたかも義務の感が戻ってきたかのように、彼はマリユスの方へ身をかがめ、掌《てのひら》の窪《くぼ》の中に水をすくって、その数滴を静かに彼の顔にふりかけた。マリユスの眼瞼《まぶた》は開かなかった。けれども半ば開いてるその口には息が通っていた。
 ジャン・ヴァルジャンは再び川に手を入れようとした。その時、姿は見えないがだれかが背後に立ってるような言い知れぬ不安を突然感じた。
 だれでもそういう感銘を知ってるはずだが、それについては既に他の所で述べてきたとおりである。
 ジャン・ヴァルジャンはふり返った。
 
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