ゼがモリエールを嘲り、ポープがセークスピヤを嘲り、フレロンがヴォルテールを嘲ったのは、昔からよくある嫉妬《しっと》と憎みからきたのである。天才は嘲笑《ちょうしょう》を受け、偉人は多少人から吠《ほ》えらるるのが常である。しかしゾイルス輩とキケロとはまったく別者だ。キケロは思想による審判者である。あたかもブルツスが剣による審判者であるのと同じだ。僕に言わすれば、後者の審判すなわち剣によるものは好ましくない。しかし古代はそれを許していた。ルビコンを渡ったシーザーは、民衆から来るもろもろの地位をおのれから出るもののように人に授け、元老院に姿を現わさず、エウトロピウスが言ったように、王のごときまたほとんど暴君のごときこと[#「王のごときまたほとんど暴君のごときこと」に傍点]を行なった。そして彼は偉人であったために、それだけ不幸ともまた幸とも言える。なぜなれば、彼が偉人であっただけにいっそうその教訓は高遠となったから。しかし僕の目から見れば、彼が受けた二十三の傷は、イエス・キリストの額に吐きかけられた唾《つば》ほどの痛切さを持たない。シーザーは元老院の議員らから刺されたが、キリストは下男らから侮辱
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