それら勇敢な行為については、何らの報告文も作られていない。
 一八三二年におけるパリーの下水道は、今日の状態とは非常な差があった。ブリュヌゾーは一刺戟を与えたが、その後なされた大改造をいよいよ着手さしたのはコレラ病の流行だった。たとえば口にするも驚くべきことではあるが、一八二一年には、大運河と言わるる囲繞溝渠《いじょうこうきょ》の一部が、ちょうどヴェニスの運河のように、グールド街に裸のまま蟠《わだかま》っていた。その醜悪の蓋《ふた》をするに要した二十六万六千八十フラン六サンチームの金を、パリー市が調達し得たのは、ようやく一八二三年のことである。コンバとキュネットとサン・マンデとの三つの吸入井戸を、その出口と種々の装置とたまりと清浄用の分脈とをつけて完成したのは、わずかに一八三六年のことである。それからしだいにパリーの腹中の溝渠は新しく作り直され、また前に言ったとおり、最近四半世紀ばかりの間に十倍以上の長さとなった。
 今から三十年前、すなわち一八三二年六月五日六日の反乱のおりには、下水道の大部分はほとんど昔のままだった。大多数の街路は、今日では中高となっているが、当時は中低の道にすぎな
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