しがい》をになって一里半以上も、歩かなければならなかったのです。しかも何の目的でかと言えば、ただその死骸を救うということだけです。そしてその死骸が私だったのです。彼はこう思ったのでしょう。まだおそらく生命の影が残ってるらしい、このかすかな生命のために自分一身を賭《と》してみようと。しかも彼は自分の一身を、一度だけではなく幾度も危険にさらしたのです。進んでゆく一歩一歩が皆危険だったのです。その証拠には、下水道を出るとすぐに捕えられたのでもわかります。どうです、彼はそれだけのことをやったのです。しかも何らの報酬をも期待してはいなかったのです。私は何者だったのでしょう、ひとりの暴徒にすぎなかったのです、ひとりの敗北者にすぎなかったのです。ああ、もしコゼットの六十万フランが私のものであったら……。」
「それはあなたのものです。」とジャン・ヴァルジャンはさえぎった。
「そうなれば、」とマリユスは言った、「あの人を見つけ出すために私はそれを皆投げ出してもかまいません。」
 ジャン・ヴァルジャンは黙っていた。
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   第六編 不眠の夜


     一 一八三三年二月十六日

 一八三三年二月十六日から十七日へかけた夜は、祝福されたる夜であった。夜の影の上には天が開けていた。マリユスとコゼットとの結婚の夜だった。
 その日は実に麗しい一日だった。
 それは祖父が夢想したような空色の祝典ではなく、新郎新婦の頭上に天使や愛の神が飛び回る夢幻的な祝いではなく、門の上に美しい彫刻帯をつけるのにふさわしい結婚ではなかった。しかしそれは楽しい微笑《ほほえ》んでる一日だった。
 一八三三年の結婚式のありさまは、今日とは非常に異なっていた。新婦を連れ、教会堂から出るとすぐに逃げ出し、自分の幸福をはずかしがって身を隠し、破産者のように人を避ける様子とソロモンの賛歌のような歓喜とを一つにするという、あのイギリスふうの雅致は、まだフランスに行なわれていなかった。その楽園を駅馬車の動揺に任し、その神秘を馬車の軋《きし》る音で貫かせ、旅籠屋《はたごや》の寝床を結婚の床とし、そして一生のうちの最も神聖な思い出を、駅馬車の車掌や宿屋の女中などと差し向かいになった光景に交じえながら、一晩だけの卑俗な寝床に残してくるという、そういうやり方のうちに、貞節な微妙な謹直な何かがあることは、まだ了解されていなかった。
 現今十九世紀の後半においては、区長とその飾り帯、牧師とその法衣、法律と神、それだけでは足りなくなっている。それに加うるに、ロンジュモーの御者([#ここから割り注]訳者注 美声を持ったある駅馬車の御者が結婚の間ぎわに女をすててオペラ役者になって浮かれ歩くという歌劇中の人物[#ここで割り注終わり])をもってしなければならない。赤い縁取りと鈴ボタンのついてる青い上衣、延べ金の腕章、緑皮の股衣、尾を結んだノルマンディー馬への掛け声、にせの金モール、塗り帽子、髪粉をつけた変な頭髪、大きな鞭《むち》、および丈夫な長靴《ながぐつ》。けれどもフランスではまだ、イギリスの貴族がするように、新郎新婦の駅馬車の上に底のぬけた上靴や破れた古靴などをやたらに投げつけるほど、優美のふうが進んではいない。その風習は、結婚の当日伯母の怒りを買って古靴を投げつけられたのがかえって僥倖《ぎょうこう》になったという、マールボルーあるいはマルブルーク公となったチャーチル(訳者注 十八世紀はじめのイギリスの将軍でおどけ唄の主人公として伝説的の人物となった人)に由来するものである。そういう古靴や上靴は、まだフランスの結婚式にははいってきていない。しかし気長に待つがいい。いわゆるいい趣味はだんだんひろがってゆくもので、やがてはそれも行なわれるようになるだろう。
 一八三三年には、また百年以前には、馬車を大駆けにさせる結婚式などというものは行なわれていなかった。
 変に思われるかも知れないが、その頃の人の考えでは、結婚というものはごく打ち解けた公《おおやけ》の祝いであり、淳朴《じゅんぼく》な祝宴は家庭の尊厳を汚するものではなく、たといそのにぎわいは度を越えようと、猥《みだ》らなものでさえなければ、少しも幸福の妨げとなるものではないとされ、また、やがて一家族が生まれいずべきふたりの運命の和合をまず家の中で始め、同棲《どうせい》生活がその楔《くさび》として長く結婚の室《へや》を有することは、至って尊い善良なことだとされていた。
 そして人々は、不謹慎にも自宅で結婚をしたのである。
 マリユスとコゼットとの結婚も、現今|廃《すた》っているその風習に従って、ジルノルマン氏の家でなされた。
 教会堂に掲示すべき予告、正式の契約書、区役所、教会堂、それら結婚上の仕事はごく当然な普通なことではあるが、いつも多少
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