る男を押さえた。警官の命令で、御者は「その人たち」を馬車に乗せた。最初フィーユ・デュ・カルヴェール街へ行った。死んでる男はそこでおろされた。その死んでる男というのはマリユス氏であった。「こんどは」生きていたけれども、御者は確かに見覚えていた。それからふたりはまた彼の馬車に乗った。彼は馬に鞭《むち》をあてた。古文書館の門から数歩の所で、止まれと声をかけられた。その街路で彼は金をもらって返された。警官はもひとりの男をどこかへ連れて行った。それ以上のことは少しも知らない。その晩は非常に暗かった。
 前に言ったとおり、マリユスは何にも覚えていなかった。防寨《ぼうさい》の中であおむけに倒れかかる時背後から力強い手でとらえられたことだけを、ようやく思い出した。それから何にもわからなくなった。意識を回復したのはジルノルマン氏の家においてだった。
 彼は推測に迷った。
 御者の言う男が彼自身であることは疑いなかった。けれども、シャンヴルリー街で倒れてアンヴァリード橋近くのセーヌ川の汀《みぎわ》で警官から拾い上げられたとは、どうしたのであったろうか。だれかが彼を市場町からシャン・ゼリゼーまで運んでくれたには違いなかった。だがどうして? 下水道を通ってか。それにしては驚くべき献身的な行為である。
 だれかしら。だれだろうか?
 マリユスがさがしてるのはその男であった。
 彼の救い主であるその男については、何にもわからず、何らの踪跡《そうせき》もなく、少しの手掛かりもなかった。
 マリユスは警察の方には内々にせざるを得なかったが、それでもついに警視庁にまで探索を進めてみた。しかしそこでも他の所と同じく、何ら光明ある消息は得られなかった。警視庁では辻馬車《つじばしゃ》の御者ほどもその事件を知っていなかった。六月六日|大溝渠《だいこうきょ》の鉄の扉《とびら》の所でなされた捕縛などということは少しも知られていなかった。その件については何ら警官の報告も届いていなかった。警視庁ではそれを作り話だと見なした。それを捏造《ねつぞう》したのは御者だとされた。御者というものは、少し金をもらいたいと思えば何でもやる、想像の話でもこしらえる。とは言うものの、その事柄はいかにも確からしかった。マリユスはそれを疑い得なかった。少なくとも、上に述べたとおり、自分がその男だということは疑い得なかった。
 その不思議な謎においてはすべてが不可解だった。
 その男、気絶したマリユスをかついで大溝渠《だいこうきょ》の鉄格子口《てつごうしぐち》から出て来るのを御者が見たというその不思議な男、ひとりの暴徒を救助してる現行を見張りの警官から押さえられたというその不思議な男、彼はいったいどうなったのか? 警官自身はどうなったのか? なぜその警官は口をつぐんでいたのであろうか。男はうまく逃走してしまったのであろうか。彼は警官を買収したのであろうか。マリユスがあらん限りの恩になってるその男は、なぜ生きてるしるしだに伝えてこなかったのか。その私心のない行ないは、その献身的な行ないにも劣らず驚くべきものだった。なぜその男は再び出てこなかったのか。おそらく彼はいかなる報酬を受けてもなお足りなかったのかも知れないが、しかしだれも感謝を受けて不足だとするはずはない。彼は死んだのであろうか、どういう人であったろうか、どういう顔をしていたのか? それを言い得る者はひとりもなかった。その晩は非常に暗かったと御者は答えた。バスクとニコレットとはすっかり狼狽《ろうばい》して、血にまみれた若主人にしか目を注がなかった。ただ、マリユスの悲惨な帰着を蝋燭《ろうそく》で照らしていた門番だけが、問題の男の顔をながめたのであるが、その語るところはこれだけだった、「その人は恐ろしい姿だった。」
 マリユスは探査の助けにもと思って、祖父のもとへ運ばれてきた時身につけていた血に染んだ服をそのまま取って置かした。上衣を調べてみると、裾《すそ》が妙なふうに裂けていた。その一片がなくなっていた。
 ある晩マリユスは、その不思議なできごとや、試みてみた数限りない探査や、あらゆる努力が無効に終わったことなどを、コゼットとジャン・ヴァルジャンとの前で話した。ところが「フォーシュルヴァン氏」の冷淡な顔つきは彼をいら立たした。彼はほとんど憤怒の震えを帯びてる強い調子で叫んだ。
「そうです、その人はたといどんな人であったにせよ、崇高な人です。あなたはその人のしたことがわかりますか。その人は天使のようにやってきたのです。戦いの最中に飛び込んでき、私を奪い去り、下水道の蓋《ふた》をあけ、その中に私を引きずり込み、私をになって行かなければならなかったのです。恐ろしい地下の廊下を、頭をかがめ、身体を曲げ、暗黒の中を、汚水の中を、一里半以上も、背に一つの死骸《
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