ことについては互いに一言も交じえない。そういう事実は案外たくさん世にあるものである。
ただ一度、マリユスは探りを入れてみたことがあった。彼は会話の中にシャンヴルリー街のことを持ち出して、フォーシュルヴァン氏の方へ向きながら言った。
「あなたはあの街路《まち》をよく御存じでしょうね。」
「どの街路ですか。」
「シャンヴルリー街です。」
「そういう名前については別に何の考えも浮かびませんが。」とフォーシュルヴァン氏は最も自然らしい調子で答えた。
答えは街路の名前についてであって、街路そのものについてではなかったが、それでもマリユスはよく了解できるような気がした。
「まさしく自分は夢をみたのだ。」とマリユスは考えた。「幻覚を起こしたのだ。だれか似た者がいたのだろう。フォーシュルヴァン氏はあすこにいたのではない。」
八 行方《ゆくえ》不明のふたりの男
歓喜の情はきわめて大きかったけれども、マリユスの他の気がかりを全然消すことはできなかった。
結婚の準備が整えられてる間に、定まった日を待ちながら、彼は人を使って困難な既往の穿鑿《せんさく》を細密になさした。
彼は諸方面に恩を被っていた。父のためのもあれば、自分自身のためのもあった。
まずテナルディエがいた。また彼マリユスをジルノルマン氏のもとへ運んでくれた未知の人がいた。
マリユスはそのふたりの者を探し出そうとつとめた。結婚し幸福になって彼らのことを忘れようとは思わなかった。その恩を報じなければ、これから光り輝いたものとなる自分の生活に影がさしはしないかを恐れた。その負債をいつまでも遅滞さしておくことは彼にはできなかった。楽しく未来にはいってゆく前に過去の負いめを皆済ましたいと願った。
たといテナルディエは悪漢であろうとも、そのためにポンメルシー大佐を救ったという事実を少しも曇らせはしなかった。テナルディエは世の中のだれにとっても一個の盗賊だったが、マリユスにとってだけはそうでなかった。
そしてマリユスは、ワーテルローの戦場の実景についてはまったく無知だったので、父はテナルディエに対して、生命の恩にはなってるが感謝の義務はないという妙な地位に立ってる特別の事情を、少しも知らなかった。
マリユスは種々の人に頼んだが、だれもテナルディエの行方《ゆくえ》をさがしあてることはできなかった。その踪跡《そうせき》はまったくわからなくなってるらしかった。テナルディエの女房は予審中に監獄で死んでいた。その嘆かわしい一家のうちで生き残ってるのはテナルディエと娘のアゼルマだけだったが、ふたりとも暗黒の中に没し去っていた。社会の不可知なる深淵《しんえん》は再び黙々として彼らの上を鎖《とざ》していた。その深淵の面には、何かが陥ったことを示してくれ、また錘《おもり》を投ずべき場所を示してくれるような、揺るぎや、震えや、かすかな丸い波紋さえも、もはや見られなくなっていた。
テナルディエの女房は死に、ブーラトリュエルは免訴となり、クラクズーは消えうせ、おもな被告は脱走してしまったので、ゴルボー屋敷の待ち伏せの裁判はほとんど空《くう》に終わってしまった。事件はかなり曖昧《あいまい》のままになっていた。重罪裁判廷はふたりの従犯人で満足しなければならなかった。すなわちパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユとドゥミ・リアール一名ドゥー・ミリアールとであって、ふたりとも審理の上十年の徒刑に処せられた。脱走した不在の共犯人らに対しては、無期徒刑が宣告された。頭目であって主犯者たるテナルディエは、同じく欠席裁判所によって死刑を宣告された。テナルディエに関して世に残ってるものは、その宣告だけで、あたかも柩《ひつぎ》のそばに立ってる蝋燭《ろうそく》のように、彼の葬られた名前の上に凄惨《せいさん》な光を投じていた。
その上この処刑は、再び捕縛される恐れのためにテナルディエを最後の深みへ追いやってしまったので、彼をおおう暗黒をいっそう深からしめるのみだった。
もひとりの男に関しては、すなわちマリユスを救ってくれた無名の男に関しては、初めのうち多少捜索の結果が上がったけれど、それから急に行き止まってしまった。すなわち、六月六日の夜フィーユ・デュカルヴェール街へマリユスを乗せてきた辻馬車《つじばしゃ》を見いだすことができた。その御者の言うところはこうであった。六月六日、シャン・ゼリゼー川岸通りの大溝渠《だいこうきょ》の出口の上で、午後の三時から夜まで、ある警官の命令で彼は「客待ち」をしていた。午後の九時ごろ、川の汀《みぎわ》についてる下水道の鉄格子口《てつごうしぐち》が開いた。ひとりの男がそこから出てきて、死んでるらしい他の男を肩にかついでいた。そこに番をしていた警官は、生きている男を捕え、死んでい
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