たおぼろになった。広大無限なるものがそこに口を開いてるかと思われた。下にあるものは水ではなく、深淵《しんえん》であった。川岸の壁は、切り立ち、入り組み、霧にぼかされ、たちまちに隠れて、無窮なるものの懸崖《けんがい》のようだった。
 何物も見えなかったが、水の敵意ある冷たさとぬれた石の無味なにおいとは感ぜられた。荒々しい息吹《いぶき》がその淵《ふち》から立ち上っていた。目には見えないがそれと知らるる増水、波の悲壮なささやき、橋弧の気味悪い大きさ、頭に浮かんでくるその陰惨な空洞《くうどう》中への墜落、すべてそれらの暗影は人を慄然《りつぜん》たらしむるものに満たされていた。
 ジャヴェルはその暗黒の口をながめながら、しばらくじっとたたずんでいた。専心に似た注視で目に見えないものを見守っていた。水は音を立てて流れていた。すると突然、彼は帽子をぬぎ、それを川岸縁に置いた。一瞬間の後には、帰りおくれた通行人が遠くから見たならば幽霊と思ったかも知れないような黒い高い人影が、胸壁の上にすっくと立ち現われ、セーヌ川の方へ身をかがめ、それからまた直立して、暗黒の中にまっすぐに落ちていった。鈍い水音が聞こえた。そして水中に没したその暗い姿の痙攣《けいれん》の秘密は、ただ影のみが知るところだった。
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   第五編 孫と祖父


     一 亜鉛の張られたる樹木再び現わる

 上に述べきたった事件より少し後、ブーラトリュエルはひどく心を動かされた。
 ブーラトリュエルというのは、あのモンフェルメイュの道路工夫で、本書の暗黒なる場面において読者が既に瞥見《べっけん》した男である。
 読者はたぶん記憶してるだろうが、ブーラトリュエルは種々の怪しい仕事をやっていた。石割りをしながらも、大道で旅客の持ち物を強奪していた。土方《どかた》でかつ盗賊でありながら、一つの夢想をいだいていた。彼は[#「彼は」は底本では「彼はは」]モンフェルメイュの森の中に埋められてるという宝のことを信じていた。いつかはある木の根本の地中に金を見いだしてやるつもりでいた。そしてまずそれまでは通行人のポケットの金に好んで目をつけていた。
 けれども当座の間は彼も謹慎していた。彼はわずかに身を脱したのだった。読者の知るとおり、彼はジョンドレットの陋屋《ろうおく》の中で、他の悪漢らとともに捕縛された。ところが、悪徳も時には役に立つもので、泥酔のために助かった。彼がそこに盗賊としていたのかもしくは被害者としていたのか、どうしてもわからなかった。待ち伏せの晩泥酔していたことが証明されたので、免訴の申し渡しによって、自由の身となった。彼はまた森の中に逃げ込んだ。彼はガンエーからランニーへ至る道路工事に立ち戻り、政府の監視の下に、国家のために道路の手入れをなし、しおれた顔つきをし、ひどく鬱《ふさ》ぎこみ、危うく身を滅ぼさんとした悪事に対してもだいぶ熱がさめていた。しかし身を救ってくれた酒に対しては、いっそうの愛着をもって親しんでいた。
 道路工夫の藁小屋《わらごや》に戻って間もなく、彼がひどく心を動かされたことというのは、次のような事柄だった。
 ある朝まだ日の出より少し前の頃、ブーラトリュエルはいつものとおり仕事に、またおそらくは待ち伏せに出かけたが、その途中で、樹木の枝葉の間にひとりの男を認めた。彼はそのうしろ姿を見ただけだったが、遠方から薄ら明りの中にながめた所では、かっこうにどうやら見覚えがあるような気がした。ブーラトリュエルは酒飲みではあったが、正確|明晰《めいせき》な記憶力を持っていた。そういう記憶力は、法律的方面と多少の争いをしてる者にとっては、欠くべからざる護身の武器である。
「あの男は見かけたような奴《やつ》だが、はてな?」と彼は自ら尋ねてみた。
 しかし、頭の中にぼんやり残ってるだれかにその男が似てるというだけで、そのほかは何にも自ら答えることができなかった。
 それでもブーラトリュエルは、それをだれとはっきりきめることはできなかったが、種々考え合わせ推測してみた。男は土地の者ではない。どこからかやってきた者に相違ない。明らかに徒歩できたのである。今時分モンフェルメイュを通る客馬車は一つもない。男は夜通し歩いたに違いない。それではいったいどこからきたのだろう? 遠方からではない。旅嚢《りょのう》も包みも持っていないのを見てもわかる。きっとパリーからきたのであろう。ところで、なぜこの森の中にきたのか、なぜこんな時刻にきたのか、何をしにきたのか?
 ブーラトリュエルは宝のことを考えた。それから記憶をたどっていると、既に数年前、ある男のことで同じように心をひかれたことがあったのを、ぼんやり思い出した。どうもその男と同一人であるように考えられた。
 そんなことを考えふけり
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