じゅんら》の訓令などのために備えてあるものだった。
 いつも一個の藁椅子《わらいす》がついてるそのテーブルは、規定の品である。いずれの分署にも備えてある。そして必ず、鋸屑《のこくず》がいっぱいはいってる黄楊《つげ》の平皿と、赤い封蝋がいっぱいはいってるボール箱とが上にのっている。それは官省ふうの最下級をなすものである。国家の文学はまずそこで始まる。
 ジャヴェルはペンと一枚の紙とを取って、書き始めた。彼が書いた文句は次のとおりだった。

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  職務上の注意事項
 一、警視総監閣下の一瞥《いちべつ》せられんことを願う。
 二、予審廷より来る囚徒らは、身体検査中、靴《くつ》を脱ぎ跣足《はだし》のまま舗石《しきいし》の上に佇立《ちょりつ》す。監獄に戻るにおよんで多くは咳《せき》を発す。ために病舎の費用を増すに至る。
 三、製糸監は、所々に警官の配置あるをもってはなはだよろし。しかれども、重大なる場合のために、少なくともふたりの警官は互いに見得る位置を保つ要あるべし。かくせば、もし何らかの理由によって、ひとりが務めを怠ることありとも、他のひとりがそれを監視し補足するを得ん。
 四、マドロンネット監獄においては、たとい金を払うも囚徒に椅子《いす》を与えざる特殊の規則あれど、その何ゆえなるやを解する能《あた》わず。
 五、マドロンネットにおいては、酒保の窓に二本の鉄棒あるのみ。これ酒保をして、囚徒に手を触るるを得せしむるものなり。
 六、呼び出し人と普通に称せられて他の囚徒らを面会所に呼ぶの用をなす囚徒は、名前を声高に叫ぶごとに当人より二スーずつ徴発す。これ一つの奪取なり。
 七、一筋の糸のたれたるものあれば、該囚徒は織物工場において十スーずつ賃金を差し引かる。これ請け負い者の弊風なり。織物はそのために粗悪となるものに非ざればなり。
 八、フォルス監獄を訪れる者が、サント・マリー・レジプシエンヌ面会所に至るために、必ず「小僧の中庭」を通るは、憂慮すべきことなり。
 九、毎日憲兵らが、警視庁の中庭において、司法官らの行なえる尋問を語り合うは、確かなる事実なり。神聖なるべき憲兵が、予審廷にて聞けることを繰り返し語るは、風紀の重大なる紊乱《びんらん》なり。
 十、アンリー夫人は正直なる女にして、その酒保はきわめて清潔なり。しかれども、秘密監の罠《わな》の口をひとりの女が握るは、よきことに非《あら》ず。そは大文明の附属監獄にとりて恥ずべきことなり。
[#ここで字下げ終わり]

 ジャヴェルは一つの句読点をも略さず、紙に確かなペンの音を立てながら、最も冷静正確な手跡で、右の各行をしたためた。そして最後の行の次に署名をした。

[#地から4字上げ]一等警視  ジャヴェル

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シャートレー広場の分署において
一八三二年六月七日午前一時頃
[#ここで字下げ終わり]

 ジャヴェルは紙の上の新しいインキをかわかし、紙を手紙のように折り、それに封をし、裏に「制度に関する覚え書き」としたため、それをテーブルの上に残し置き、そして衛舎から出て行った。鉄格子《てつごうし》のはまってるガラス戸は彼の背後に閉ざされた。
 彼はシャートレー広場を再び斜めに横ぎり、川岸通りにいで、ほとんど自動機械のような正確さで、十五、六分前に去った同じ場所へ戻ってきた。彼はそこに肱《ひじ》をつき、胸壁の同じ石の上に同じ態度で身を休めた。前の時から身を動かしたとは思えないほどだった。
 一点のすき間もない闇《やみ》だった。ま夜中に引き続く墳墓のような時間だった。雲の天井が星を隠していた。空には凄惨《せいさん》な気が深くよどんでいた。シテ島の人家にももう一点の光も見えなかった。通りかかる者もなかった。街路も川岸通りも、見える限り寂然《せきぜん》としていた。ノートル・ダームの堂宇と裁判所の塔とが、暗夜のひな形のように見えていた。一つの街灯の光が川岸縁を赤く染めていた。多くの橋の姿は、靄《もや》の中に相重なってぼかされていた。川の水は雨のために増していた。
 読者の記憶するとおり、ジャヴェルがよりかかってるその場所は、ちょうどセーヌ川の急流の上であって、無限の螺旋《らせん》のように解けてはまた結ばるる恐るべき水の渦巻《うずま》きを眼下にしていた。
 ジャヴェルは頭をかがめてながめ入った。すべてはまっくらで、何物も見分けられなかった。泡立《あわだ》つ激流の音は聞こえていたが、川の面は見えなかった。おりおり、目が眩《くら》むばかりのその深みの中に、一条の明るみが現われて茫漠《ぼうばく》たるうねりをなした。水には一種の力があって、最も深い闇夜のうちにも、どこからともなく光を取ってきてそれを蛇《へび》の形になすものである。が、再びその明るみも消え、すべてはま
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