分の頭脳が少しく開けるのを感じた。
彼はその異変のために面目を一新した、というよりもむしろその犠牲となった。彼は憤激しながらそれに打たれた。彼がその中に見たところのものは、存立の大なる困難のみだった。爾来《じらい》永久に呼吸を妨げられるような心地がした。
頭の上に未知のものを持つこと、それに彼はなれていなかった。
それまで自分の上に持ってたところのものは、明確単純清澄な表面であるように彼の目には見えていた。そこには、何ら未知のものもなく暗黒なものもなかった。規定されたるもの、整理されたるもの、鎖につなぎ止められたるもの、簡明なるもの、正確なるもの、範囲の定められたるもの、限定されたるもの、閉鎖されたるもの、ばかりであった。すべて予見されたるものであった。官憲は一つの平坦なるものであった。その中には何らの墜落もなく、それに対しては何らの眩惑《げんわく》もなかった。ジャヴェルが今まで未知のものを見てきたのは、ただ下方においてのみだった。不規律、意想外、渾沌界《こんとんかい》の錯雑した入り口、いつすべり落ちるかもわからない深淵《しんえん》、そういうものは、賊徒や悪人や罪人などのすべて下層地帯に存在していた。しかるに今ジャヴェルはあおむけに転倒し、異様な妖怪すなわち上方の深淵を見て、にわかに狼狽《ろうばい》した。
どうしたことであろう、徹頭徹尾突きくずされ、絶対に失調させられるとは! およそ何に信頼したらいいか。確信していたものが崩壊してしまうとは!
社会の鎧《よろい》の欠陥が寛厚なる一罪人によって見いだされ得るのか。法律の正直なる僕《しもべ》が、ひとりの男を放免するの罪とそれを捕縛するの罪との二つの罪の間に、突然板ばさみになることがあり得るのか。国家が役人に与える訓令のうちにも、不確かなるものがあるのか。義務のうちにも行き止まりがあるものなのか。ああそれらはすべて実際のことだったのか。刑罰の下に屈している昔の悪漢がすっくと立ち上がってついに正当となることがあるのも、真実だったのか。そんなことが信じ得られようか。それでは、法律も変容した罪悪の前に宥免《ゆうめん》を乞《こ》いながら退かなければならないような場合が、世にはあるのか。
そうだ、それは事実であった。ジャヴェルはそれを見、それに触れた。ただにそれを否定し得なかったばかりでなく、自らその渦中《かちゅう》のひとりであった。それはまさしく現実であった。現実がかかる異様な姿になり得るとは、実に呪《のろ》うべきことだった。
もし事実がその本分を守るならば、必ずや事実は法を証明することをしかしないであろう。なぜならば、事実を世に送るものは神であるから。しかるに今や、無政府主義までが天からおりてこようとするのか。
かくて、ますます加わってくる煩悶《はんもん》のうちに、茫然《ぼうぜん》自失した幻覚のうちに、ジャヴェルの感銘を押さえ止め訂正するすべてのものは消えうせ、社会も人類も宇宙も皆、彼の目には爾来《じらい》ただ単に忌まわしいだけの姿となって映じた。そして、刑法、判決、至当なる立法の力、終審裁判所の決定、司法官職、政府、嫌疑と抑圧、官省の知恵、法律の無謬《むびゅう》、官憲の原則、政治的および個人的安寧が立脚するあらゆる信条、国王の大権、正義、法典から発する理論、社会の絶対権、公の真理、すべてそれらのものは、破片となり塵芥《じんかい》となり渾沌《こんとん》たるものとなってしまった。秩序の監視人であり、警察の厳正な僕《しもべ》であり、社会を保護する番犬である、彼ジャヴェル自身も、打ち負かされてしまった。そしてそれらの廃墟の上に、緑の帽を頭にかぶり円光を額にいただいてるひとりの男が立っていた。彼が陥った惑乱はそういうものであり、彼が魂のうちに持った恐るべき幻はそういうものであった。
それはたえ得ることであったろうか。否。
きびしい状態があるとすれば、それこそまさにきびしい状態であった。それから脱する道は二つしかなかった。一つは、決然としてジャン・ヴァルジャンに向かって進んでゆき、徒刑囚たる彼を地牢《ちろう》に返納すること。今一つは……。
ジャヴェルは橋の胸壁を離れ、こんどは頭をもたげて、シャートレー広場の片すみにともってる軒灯で示されている衛舎の方へ、確乎《かっこ》たる足取りで進んでいった。
そこまで行って彼は、ひとりの巡査が中にいるのをガラス戸から認め、自分もはいっていった。衛舎の扉《とびら》のあけ方だけででも、警察の者らは互いにそれと知り得るのである。ジャヴェルは自分の名前を告げ、名刺を巡査に示し、それから一本の蝋燭《ろうそく》がともってるそのテーブルの前にすわった。テーブルの上には、一本のペンと、鉛のインキ壺《つぼ》と、少しの紙とがのっていた。不時の調書や夜間|巡邏《
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