そして彼は自分に叫びかける一つの声を、異様な声を、頭の奥に聞いた。「よろしい。汝の救い主を引き渡せ。それからポンテオ・ピラト([#ここから割り注]訳者注 キリストを祭司の長等に引き渡せしユダヤの太守[#ここで割り注終わり])の盥《たらい》を取り寄せて汝の手を洗うがいい。」
 次に彼の考えは自分自身の上に戻ってきて、壮大となったジャン・ヴァルジャンの傍に、堕落した自身ジャヴェルの姿を見た。
 一徒刑囚が彼の恩人だったのである!
 しかしまた、何ゆえに彼は自分を生かしておくことをその男に許したのだったか。彼は防寨《ぼうさい》の中で殺さるべき権利を持っていた。彼はその権利を用うべきだったろう。他の暴徒らを呼んでジャン・ヴァルジャンを妨げ、無理にも銃殺されること、その方がよかったのである。
 彼の最大の苦悶は、確実なものがなくなったことであった。彼は自分が根こぎにされたのを感じた。法典ももはや彼の手の中では丸太にすぎなかった。彼はわけのわからぬ一種の懸念と争わなければならなかった。その時まで彼の唯一の規矩《きく》だった合法的肯定とはまったく異なった一つの感情的啓示が、彼のうちに起こってきた。旧《もと》の公明正大さのうちに止まるだけでは、もう足りなくなった。意外な一連の事実が突発して、彼を屈服さした。一つの新世界が彼の魂に現われた。すなわち、甘受してまた返してやった親切、献身、慈悲、寛容、憐愍《れんびん》から発した峻厳《しゅんげん》の毀損《きそん》、個人性の承認、絶対的裁断の消滅、永劫定罪の消滅、法律の目における涙の可能、人間に依存する正義とは反対の方向を取る一種の神に依存する正義。彼は暗黒のうちに、いまだ知らなかった道徳の太陽が恐ろしく上りゆくのを見た。それは彼をおびえさし、彼を眩惑《げんわく》さした。鷲《わし》の目を持つことを強《し》いられた梟《ふくろう》であった。
 彼は自ら言った、これも真実なのだ、世には例外がある、官憲も狼狽《ろうばい》させられることがある、規則も事実の前に逡巡《しゅんじゅん》することがある、万事が法典の明文のうちに当てはまるものではない、意外事は人を服従させる、徒刑囚の徳は役人の徳を罠《わな》にかからせることもある、怪物が神聖になることもある、宿命のうちにはそういう伏兵もある。そして彼は絶望の念をもって、自分はそういう奇襲を避けることができなかったのだと考えた。
 彼は親切というものの世に存在することを認めざるを得なかった。あの囚人は親切であった。そして彼自身も、不思議なことではあるが、先刻親切な行ないをなしてきた。彼は変性したのだった。
 彼は自分が卑怯《ひきょう》であるのを認めた。彼は自ら恐ろしくなった。
 ジャヴェルの理想は、人間的たることではなく、偉大たることではなく、崇高たることではなかった。一点の非もないものとなることであった。
 しかるに彼は今や歩を誤っていた。
 どうして彼はそうなったのか、どうしてそういうことが起こったのか? それは彼自身にもわからなかった。彼は両手で頭を押さえ、いかに考えてみても、自らそれを説明することができなかった。
 確かに彼はジャン・ヴァルジャンを再び法律の下に置こうと常に考えていた。ジャン・ヴァルジャンは法律の虜《とりこ》であり、彼ジャヴェルは法律の奴隷《どれい》であった。ジャン・ヴァルジャンを手にしてる間、それを放ちやろうという考えを持ってるとは、彼はただの瞬時も自ら認めなかった。彼の手が開いてジャン・ヴァルジャンを放したのは、ほとんど自ら知らずに行なったことだった。
 あらゆる種類の謎《なぞ》のような新奇なことが、彼の眼前に現われてきた。彼は自ら問い自ら答えたが、その答はかえって彼を脅かした。彼は自ら尋ねてみた。「私がほとんど迫害するまでに追求したあの囚徒は、あの絶望の男は、私を足の下に踏まえ、復讐《ふくしゅう》することができ、しかも怨恨《えんこん》のためと身の安全のために復讐するのが至当でありながら、私の生命を助け、私を赦《ゆる》したが、それはいったいなぜであったか。私的な義務というか。否。義務以上の何かである。そして私もまたこんどは、彼を赦してやったが、それはいったいなぜであったか。私的な義務というか。否。義務以上の何かである。それでは果たして、義務以上の何かがあるのであるか?」そこになって彼はおびえた。彼の秤《はかり》ははずれてしまった。一方の皿は深淵《しんえん》のうちに落ち、一方の皿は天に上がった。そしてジャヴェルは、上にあがった方と下に落ちた方とに対して、等しく恐怖を感じた。彼はヴォルテール派とか哲人とか不信者とか呼ばれるような人物では少しもなかった。否かえって本能から、うち立てられたキリスト教会を尊敬していた。けれどもただ、社会全体のいかめしい一片と
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