自分のなしてきた事柄に戦慄《せんりつ》した。彼ジャヴェルは、警察のあらゆる規則に反し、社会上および司法上の組織に反し、法典全部に反し、自らよしとして罪人を放免したのである。それは彼一個には至当であった。しかし彼は私事のために公務を犠牲にした。それは何とも名状し難いことではなかったか。自ら犯したその名義の立たない行為に顔を向けるたびごとに、彼は頭から足先までふるえ上がった。いかなる決心を取るべきであるか。今はただ一つの手段きり残っていなかった。急いでオンム・アルメ街に戻りジャン・ヴァルジャンを下獄させること、それこそ明らかに彼がなさなければならないことだった。しかし彼はなし得なかった。
 何かがその方への道を彼にふさいでいた。
 何物であるか? 何であるか? 法廷や執行文や警察や官憲などより他のものが、世にはあるのであろうか。ジャヴェルは当惑した。
 神聖なる徒刑囚、法をもっても裁くことのできない囚人、しかもそれはジャヴェルにとって現実であった。
 罰を与えるための人間であるジャヴェルと、罰を受くるための人間であるジャン・ヴァルジャンと、互いに法の中にあるそのふたりが、ふたりとも法を超越するに至ったことは、恐るべきことではなかったか。
 いったいどうしたわけであるか。かかる異常事が世に起こるものであろうか、そしてだれも罰を受けないことがあり得るだろうか。ジャン・ヴァルジャンは社会組織全体よりも強力であって自由の身となり、彼ジャヴェルはなお政府のパンを食い続けてゆく、そういうことがあり得るだろうか。
 彼の夢想はしだいに恐ろしくなってきた。
 そういう夢想の間にも彼はなお、フィーユ・デュ・カルヴェール街に運ばれた暴徒のことについて、多少の自責を持つはずであった。しかし彼はそのことを念頭に浮かべなかった。小さな過失はより大なる過失のうちに消えてしまった。それにまた、その暴徒は確かに死んでいた。法律上の追跡は死人にまで及ぶものではない。
 ジャン・ヴァルジャンという一点こそ、彼の精神を圧する重荷であった。
 ジャン・ヴァルジャンは彼をまったく困惑さした。彼の生涯の支柱だったあらゆる定理はその男の前にくずれてしまった。彼ジャヴェルに対するジャン・ヴァルジャンの寛容は、彼を圧倒してしまった。昔彼が虚偽とし狂愚として取り扱ってきた他の事実も思い出されて、今や現実のものとなってよみがえってきた。マドレーヌ氏の姿は、ジャン・ヴァルジャンの背後に再び現われ、その二つの姿が重なり合って一つとなり、崇敬すべきものとなった。恐ろしい何ものかが、囚人に対する賛嘆の情が、魂のうちに沁《し》み通ってくるのをジャヴェルは感じた。徒刑囚に対する尊敬、そういうことがあり得るであろうか。彼は慄然《りつぜん》として、身をささえることができなかった。いかにもだえても、内心の審判のうちにおいて、その悪漢の荘厳さを自白せざるを得なかった。それは実にたえ難いことであった。
 慈善を施す悪人、あわれみの念が強く、やさしく、救助を事とし、寛大で、悪に報ゆるに善をもってし、憎悪《ぞうお》に報ゆるに許容をもってし、復讐《ふくしゅう》よりも憐愍《れんびん》を取り、敵を滅ぼすよりも身を滅ぼすことを好み、おのれを打った者を救い、徳の高所にあってひざまずき、人間よりも天使に近い徒刑囚、そういう怪物が世に存在することを、ジャヴェルは自認するの余儀なきに至った。
 事情はそのまま存続するを得なかった。
 あえて力説するが、あの怪物に、その賤《いや》しむべき天使に、その嫌悪《けんお》すべき英雄に、彼を茫然《ぼうぜん》たらしむるとともに憤激さしたその男に、まさしく彼は何ら抵抗することなく屈服したのではなかった。ジャン・ヴァルジャンと向き合って馬車の中にいた間に、幾度となく法の虎《とら》は彼のうちに咆哮《ほうこう》した。幾度となく彼はジャン・ヴァルジャンの上に飛びかかりたい念に駆られた。彼をつかみ彼を食わんとした、すなわち彼を捕縛せんとした。実際それは誠に容易なことだった。衛舎の前を通りかかる時、「これは監視違反の囚人だ」と叫び、憲兵らを呼び、「この男を君たちに引き渡す」と言い、それから自分は立ち去り、罪人をそこに残し、その他のことはいっさいかまわず、自分は少しもそれに関与しなければよかったのである。ジャン・ヴァルジャンは永久に法律の捕虜となり、法律の欲するままに処理せらるるだろう。それこそ最も正当なことだった。ジャヴェルはそれらのことをひとり考えた。そしてその方向を取り、手を下し、彼をつかもうとした。しかし今それができなくなったと同じく、その時にもそれができなかった。ジャン・ヴァルジャンの首筋に向かって痙攣的《けいれんてき》に手をあげるたびごとに、その手は非常な重さに圧せられるように再び下にたれた。
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