ど彼女をまた取り戻したような心地になった。
「ありがとう、お父様。」とコゼットは言った。
 その感情の誘惑はジャン・ヴァルジャンにとって痛烈なものとなり始めた。彼は静かにコゼットの腕から身を退け、そして帽子を取り上げた。
「どうなさるの。」とコゼットは言った。
 ジャン・ヴァルジャンは答えた。
「奥さん、お別れします。皆様が待っていられましょうから。」
 そして扉《とびら》の閾《しきい》の上で彼は言い添えた。
「私はあなたにお前と言いました。しかしもうこれからそんなことはしないと御主人に申し上げて下さい。ごめん下さい。」
 ジャン・ヴァルジャンはコゼットをあとにして出て行った。コゼットはその謎《なぞ》のような別れの言葉に茫然《ぼうぜん》としてしまった。

     二 更に数歩の退却

 翌日、同じ時刻に、ジャン・ヴァルジャンはやってきた。
 コゼットはもう何にも尋ねもせず、不思議がりもせず、寒いとも言わず、客間のことも口に出さなかった。彼女はお父様ともまたはジャンさんとも言わなかった。そして自分はあなたと言われるままにしておいた。奥さんと言われるままにしておいた。ただ喜びの情が少し減じてるのみだった。もし悲しみが彼女にも可能であるとすれば、彼女はいくらか悲しんでいた。
 愛せられる男は、好き勝手なことを語って、何にも説明せず、しかもそれで愛せられている女を満足させるものであるが、おそらくコゼットもマリユスとそういう談話をかわしたのであろう。恋人らの好奇心は、自分らの愛より以外に遠くわたるものではない。
 下の室は多少取り片づけられた。バスクは空罎《あきびん》を取り除け、ニコレットは蜘蛛《くも》の巣を払った。
 その後毎日同じ時刻に、ジャン・ヴァルジャンはやってきた。彼はマリユスの言葉を文字どおりに解釈して日々こざるを得なかったのである。マリユスはジャン・ヴァルジャンがやって来る時刻には、いつも外出するようにしていた。一家の人々は、フォーシュルヴァン氏の一風変わったやり方になれてきた。それにはトゥーサンの助けもよほどあった。「旦那様はいつもあんなでございました[#「旦那様はいつもあんなでございました」に傍点]」と彼女は繰り返し言った。祖父も、「あの人は変わり者だ」と断言した。そしてすべてはきまった。その上九十歳にもなれば、もう交際などということはできなくて、ただいっ
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