゚痛であり、老年になっては悲惨である。血は熱く、頭髪は黒く、蝋燭《ろうそく》の炎のように頭は身体の上にまっすぐに立ち、運命の巻き物はまだ太く、心は希望の愛に満ちてなおときめくことあり、前途にはなお償いの時間を有し、あらゆる婦人と微笑と未来と地平とが前にあり、生の力が充実している、そういう時に当たっても、絶望は一つの恐るべきものであるとするならば、年月はますます淡く過ぎてゆき、墳墓の星が見えそむる夕暮れの時間たる老年においては、それはおよそいかなるものであろうか!
 ジャン・ヴァルジャンが思いに沈んでいる時、トゥーサンがはいってきた。彼は立ち上がって、そして尋ねた。
「どの方面だか、お前知っているか。」
 トゥーサンはあっけにとられて、ただこう答えるのほかはなかった。
「何でございますか。」
 ジャン・ヴァルジャンは言った。
「さっきお前は、戦いが始まってると言ったのではなかったかね。」
「ああそのことでございますか、旦那様《だんなさま》、」とトゥーサンは答えた、「サン・メーリーの方でございますよ。」
 人には自ら知らず知らずのうちに、最も深い考えの底から発してくる機械的な運動がある。ジャン・ヴァルジャンは確かに、自らほとんど気づかずにそういう運動の衝動に駆られたのであろう、四、五分経つともう街路に出ていた。
 彼は帽子もかぶらず、家の入り口にある標石に腰をおろしていた。何かに耳を澄ましてるがようだった。
 もう夜になっていた。

     二 灯火《あかり》の敵たる浮浪少年

 どれだけの間彼はそのままでいたか。その悲壮な瞑想《めいそう》の干満はいかなるものであったか。彼はまたたち上がったか、屈服したままでいたか、破れ裂けるまで身をかがめていたか、またはなお立ち直って何か強固なものの上に本心の足をふみしめることができたか。おそらく彼自身でもそれに答えることはできなかったであろう。
 街路はひっそりと静まり返っていた。急ぎ足で家に帰ってゆく不安な市民も二、三通りかかったが、ほとんどジャン・ヴァルジャンに気づきもしなかった。危急の場合にはだれも自分のこときり考えられないものである。点灯夫はいつものとおりやってきて、ちょうど七番地の家の正面にある街灯に火をともして、また立ち去っていった。その時影のうちにあるジャン・ヴァルジャンの姿は、おそらく生きてる人とは思えなかったろう。彼はそこに、戸口の標石の上にすわって、氷の悪鬼のようにじっとしていた。絶望のうちにも氷結があるものである。遠くには警鐘の響きと漠然《ばくぜん》たる喧騒《けんそう》の音とが聞こえていた。暴動に交じったそれらの鐘の響きの中に、サン・ポールの大時計が、おごそかに落ち着いて十一時を報じた。騒がしい警鐘は人間の業《わざ》であり、落ち着いた時の鐘は神の業《わざ》である。しかし時間の経過はジャン・ヴァルジャンの上に何らの影響も与えず、彼は身動きさえしなかった。ところが間もなく、一斉射撃《いっせいしゃげき》の音が突然市場町の方面に起こり、次にまた更に激しい一斉射撃の音が起こった。それはおそらく、既に述べきたったとおり、マリユスによって撃退されたシャンヴルリー街の防寨《ぼうさい》の攻撃であったろう。夜の静けさのためいっそう猛烈に聞こえるその二度の射撃の音に、ジャン・ヴァルジャンは身を震わし、音のした方を向いて立ち上がった。しかし次にまた彼は、標石の上に腰をおろし、両腕を組み、頭はまた静かに胸にたれてしまった。
 彼は再び暗澹《あんたん》たる独語を始めた。
 突然彼は目を上げた。街路をだれか歩いていて、その足音がすぐ傍《そば》に聞こえた。街灯の光にすかして見ると、古文庫館へ通ずる街路の方に、勢いのいい年若な青白い顔が認められた。
 それはオンム・アルメ街にやってきたガヴローシュだった。
 ガヴローシュは上の方をながめて、何かさがすようだった。彼はジャン・ヴァルジャンの姿を明らかに見たが、何の注意も払わなかった。
 ガヴローシュは上の方をながめた後、こんどは下の方をながめた。彼は爪先《つまさき》で伸び上がって、一階の戸口や窓に触《さわ》ってみた。けれどもそれらは皆閉ざされて、※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かけがね》や錠でしめ切ってあった。その閉鎖された人家の前面を五、六軒調べてみた後、浮浪少年は肩をそびやかして、独語をもらした。
「畜生め!」
 それから彼はまた上の方を見上げ始めた。
 ジャン・ヴァルジャンは一瞬間前まではだれにも口もきかず返事もしそうにない心地に沈んでいたが、今やその少年に何とか言ってみたくてたまらないような気持ちになった。
「小僧さん、」と彼は言った、「どうかしたのかい。」
「腹がすいてるんだ。」とガヴローシュはきっぱり答えた。そしてまた言い添えた。「お前だって小僧だ。」
 ジャン・ヴァルジャンは内隠しの中を探って、五フラン貨幣を一つ取り出した。
 しかし鶺鴒《せきれい》のようですぐ種々なことをやるガヴローシュは、もう石を一つ拾っていた。彼は街灯に心を向けていた。
「こら、」と彼は言った、「まだここに街灯をつけてるのか。規則違犯だぞ。秩序|紊乱《びんらん》だぞ。そんなものこわしてしまえ。」
 そして彼は街灯に石を投げつけた。ガラスは大きな音を立てて地に落ちた。すると向かいの家の窓掛けの下に潜んでいた二、三の市民は叫んだ。「また九三年([#ここから割り注]一七九三年[#ここで割り注終わり])がやってきた!」
 街灯は激しく揺らめいて消えてしまった。街路はにわかに暗くなった。
「これでいい。」とガヴローシュは言った。「老耄《おいぼ》れた街路も夜の帽子をかぶるがいい。」
 そして彼はジャン・ヴァルジャンの方へ向いた。
「向こうの端に立ってるあの大きな家は何というんだい。古文庫館じゃねえのか。あの太い柱を少し打ちこわして、防寨《ぼうさい》を作るといいなあ。」
 ジャン・ヴァルジャンはガヴローシュに近寄った。
「かわいそうに、」と彼は独語するように半ば口の中で言った、「腹がすいてるんだな。」
 そして彼は少年の手に五フラン貨幣を握らしてやった。
 ガヴローシュはそのりっぱな大きな貨幣にびっくりして顔を上げた。やみの中にそれをすかしながめ、白く光ってるのに眩惑《げんわく》された。五フラン貨幣のことは噂《うわさ》に聞いて知っていて、評判だけでも悪い気持ちはしなかった。しかるに今やその一つを間近に見て、心を奪われてしまった。「虎《とら》の奴《やつ》を見てみるかな、」と彼は言った。
 彼は夢中になってしばらくそれをうちながめた。それからジャン・ヴァルジャンの方へ向いて、貨幣を差し出しながらおごそかに言った。
「俺《おれ》はな、街灯をこわす方が好きだ。この恐ろしい獣は返してやる。俺を買収しようたってだめだ。虎には五本の爪《つめ》があっても、俺を引っかくことはできねえんだ。」
「お前さんは母親を持ってるだろう。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
 ガヴローシュは答えた。
「そうさね、お前よりかかもね。」
「では、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「この金を母親に持っていってやるがいい。」
 ガヴローシュの心は動いた。その上彼は、向こうが帽子をかぶっていないのを見て、安心の念を起こした。
「なるほど、」と彼は言った、「では街灯をこわさせないためでもねえんだな。」
「何でもこわすがいいよ。」
「お前はりっぱな男だ。」とガヴローシュは言った。
 そして彼は五フラン貨幣をポケットに入れた。
 彼はますます安心して言い出した。
「お前はこの街路の人かい。」
「そうだよ。なぜ?」
「七番地ってのはどこだか教えてくれないか。」
「七番地に何の用があるのかね。」
 そこで少年は口をつぐんだ。あまり言いすぎはしなかったかと恐れた。彼は頭を爪《つめ》の先でがりがりかいて、ただこう答えた。
「ああここか。」
 ある考えがジャン・ヴァルジャンの頭に浮かんだ。心痛にもそういう明察がある。彼は少年に言った。
「お前さんは、私が待ってる手紙を持ってきたのではないのか。」
「お前が?」とガヴローシュは言った。「お前は女じゃねえや。」
「手紙はコゼット嬢へというのではないのか。」
「コゼット?」とガヴローシュはつぶやいた。「うむ、何でもそんな名だった。」
「では、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「私がその手紙を届ける役目だ。私にくれ。」
「それじゃ、俺《おれ》が防寨《ぼうさい》からきたことをお前は知ってるわけだな。」
「知ってるとも。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 ガヴローシュは貨幣を入れたのと別なポケットに手を差し込み、四つに折った紙を引き出した。
 それから彼は挙手の礼をした。
「大事な使いだ。」と彼は言った。「仮政府からきた使いだ。」
「渡してくれ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 ガヴローシュは頭の上に紙をささげた。
「恋文だと思っちゃいけねえ。あて名は女だが、実は人民へあてたものだ。俺《おれ》たち男どもは戦いをしてるが、婦人は尊敬する。女を食い物にする獅子《しし》のような奴《やつ》がいる上流とはわけが違うんだ。」
「渡してくれ。」
「つまり、」とガヴローシュは言い続けた、「お前はりっぱな男だと俺は思うんだ。」
「早く渡せ。」
「さあ。」
 そして彼はジャン・ヴァルジャンに紙を渡した。
「急ぐんだぜ、爺さん、嬢さんが待ってるからな。」
 ガヴローシュはかく爺《じい》さん嬢さんと語呂《ごろ》を重ねたのに自ら満足した。
 ジャン・ヴァルジャンは言った。
「返事はサン・メーリーへ届けるのかね。」
「そんなことがお前にできるもんか。」とガヴローシュは叫んだ。「この手紙はシャンヴルリー街の防寨《ぼうさい》からきたんだ。俺はまたそこに帰ってゆくんだ。では失敬。」
 そう言ってガヴローシュは立ち去った、というよりむしろ、籠《かご》から出た小鳥のようにもときた方へ飛んでいった。そして弾丸のようにすみやかに、闇《やみ》の中にま一文字に飛び込んでしまった。オンム・アルメ街は再び沈黙と静寂とに返った。またたくまに、影のようなまた夢のようなその不思議な少年は、暗い人家の立ち並んでる靄《もや》の中に沈み込み、闇の中の煙のように見えなくなってしまった。それから二、三分の後、ガラスのこわれる音や街灯が火の粉を上げながら舗石《しきいし》の上に落ちる音がして、また突然市民を驚かし憤らしたけれど、もしそれがなかったならば、少年はどこかへ消散し消滅してしまったかと思われるほどだった。その物音は、ショーム街を通りながらガヴローシュのやったことだった。

     三 コゼットとトゥーサンとの眠れる間に

 ジャン・ヴァルジャンはマリユスの手紙を持って家にはいった。
 彼は餌物《えもの》をつかんでる梟《ふくろう》のように暗闇《くらやみ》に満足して、手探りに階段を上がってゆき、静かに戸を開いてまた閉ざし、何か物音が聞こえはしないかと耳を澄まし、コゼットとトゥーサンとが確かに眠ってるらしい様子を見て取り、フュマードの発火壜《はっかびん》に付け木を三、四本差し入れてようやく火をともした。それほど彼の手は震えていたのである。それだけのことをする彼の様子には、何か窃盗でもやってるらしい趣があった。ついに彼は蝋燭《ろうそく》に火をともし、テーブルの上に肘《ひじ》をつき、紙を開いて読んだ。
 情の激してる時には、人は文字を読み下すことをしないで、言わば手に持ってる紙を地面にたたきつけ、犠牲に対するようにそれにつかみかかり、それを握りしめ、憤怒かもしくは喜びの爪《つめ》をその中につき立てる。結末に飛び越え、初めに飛び返る。注意は熱に燃える。概略、おおよそ、要点、をのみ了解する。一点をつかんで、他は消えうせてしまう。コゼットに送ったマリユスの寸簡のうちにジャン・ヴァルジャンは次の数語をしか見なかった。

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……私は死ぬ。……これをあなたが読む頃には、私の魂はあなたの傍《そば》にあって……。
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