ニ入り乱れて、あたかも人がまさに眠りに入らんとする時、閉じた眼瞼《まぶた》の下の靄の中に認める、名状し難い一種の燐光の網の目にも似ていた。それは炬火《たいまつ》の遠い反映に光ってる銃剣や銃身であった。
なお少しの猶予があった。両方とも待ってるがようだった。と突然、その闇《やみ》の奥から、一つの声が叫んだ。それを発した人の姿が見えないだけにいっそうすごい声で、暗黒自身が口をきいたのかと思われた。
「何の味方か?」
と同時に、銃をおろす音が聞こえた。
アンジョーラは鳴り響く傲然《ごうぜん》たる調子で答えた。
「フランス革命。」
「打て!」と声は言った。
一閃《いっせん》の光が、街路の人家の正面をぱっと赤く染めた。あたかも溶鉱炉の口が突然開いてまた閉じたかのようだった。
恐るべき爆鳴が防寨《ぼうさい》の上に落ちかかった。赤旗は倒れた。そのいっせい射撃はきわめて猛烈で稠密《ちゅうみつ》であって、赤旗の竿《さお》、すなわち乗り合い馬車の轅《ながえ》の先を、打ち折ってしまったのである。また人家の軒にはね返った弾丸は、防寨の中に流れてきて数名の者を傷つけた。
その第一のいっせい射撃は、まったく人の心胆を寒からしむるものだった。攻撃力は激烈で、最も大胆な者らをも再考せしむるほどだった。向こうは少なくとも一個連隊くらいはいそうだった。
「諸君、」とクールフェーラックは叫んだ、「火薬をむだにするな。敵がこの街路にはいって来るのを待って応戦するんだ。」
「そして何よりも、」とアンジョーラは言った、「軍旗をも一度立てることだ。」
彼はちょうど自分の足下に落ちた赤旗を拾い上げた。
外には、銃の中に入れる※[#「木+朔」、第3水準1−85−94]杖《さくじょう》の音が聞こえていた。軍隊は再び銃に弾をこめていたのである。
アンジョーラはまた言った。
「勇気のある者はいないか。防寨《ぼうさい》の上に軍旗を立てて来る者はいないか。」
答えはなかった。まさしく敵が再び銃を構えてる瞬間に防寨の上に上がることは、単に死を意味するのみだった。最も勇敢な者も自ら死地につくことは躊躇《ちゅうちょ》せざるを得ない。アンジョーラ自身も戦慄《せんりつ》した。彼は繰り返した。
「だれも出ないか。」
二 軍旗――第二|齣《せつ》
一同がコラント亭に到着して、防寨を作りはじめた時、マブーフ老人にはだれもほとんど注意を向ける者はいなかったが、老人はやはり一群の中に交じっていたのである。彼は居酒屋の階下の広間にはいって、勘定台の後ろに座を占めて、そこで言わば自分で自分を埋没さしてしまった。もはや何物をも見も考えもしていないかのようだった。クールフェーラックと他の数名の者は、二、三度彼のそばに寄ってゆき、危険を知らせ、帰ってゆくように勧めたが、彼にはその言葉も聞こえないかのようだった。人から話しかけられない時には、だれかに返事でもしてるように脣《くちびる》を動かしていたが、人が何とか言葉をかけると、その脣はすぐに動かなくなり、その目はもう死んだもののようになった。防寨《ぼうさい》が攻撃さるる数時間前から、ずっと一定の姿勢を保ったままで、両手の掌《てのひら》を両膝《りょうひざ》につき、絶壁の下をのぞき込むがように頭を前に差し出していた。どんなことがあっても彼はその姿勢を変えず、心は防寨の中にはないかのようだった。各人が戦闘位置についた時、その下の広間に残っているのはただ、柱に縛りつけられたジャヴェルと、サーベルを抜いてジャヴェルの番をしてるひとりの暴徒と、後はマブーフだけだった。攻撃のいっせい射撃があった時、彼はようやくその物音を耳にして我に返ったかのようで、突然立ち上がり、室《へや》を通りぬけ、アンジョーラが「だれも出ないか」と繰り返した時に、ちょうど居酒屋の入り口に現われていた。
彼の姿は一群の間に感動をひき起こした。ある者は叫んだ。「あれは投票者だ([#ここから割り注]訳者注 ルイ十六世の処刑に賛成の投票をした者[#ここで割り注終わり])、国約議会員だ、人民の代表者だ!」
おそらくその声も、彼の耳にははいらなかったろう。
彼はまっすぐにアンジョーラの方へ進んで行った。暴徒らは深い畏敬《いけい》の念でその前に道を開いた。彼は惘然《ぼうぜん》としてあとに退《さが》ったアンジョーラの手から、軍旗を奪い取った。そしてだれもあえてそれを止めることも手伝うこともできないうちに、八十歳を越えたこの老人は、頭を打ち振り、しかも確乎《かっこ》たる足取りで、防寨の中につけられてる舗石《しきいし》の段を徐々に上りはじめた。いかにも痛ましいまた壮大な光景であって、周囲の人々は叫んだ、「脱帽!」一段一段と上りゆく彼の姿は、恐ろしいありさまだった。その白い頭髪、老衰した顔、禿《は》げ上がって皺《しわ》寄った大きな額、深くくぼんだ目、驚いてるような開いた口、赤旗をささげてる年取った腕、それが闇《やみ》の中から現われて、炬火《たいまつ》のまっかな光の中に大きく照らし出された。九三年([#ここから割り注]一七九三年[#ここで割り注終わり])の霊が恐怖時代の旗を手にして地から現われ出たのを、人々は見るような気がした。
彼が最後の一段を上りつめた時、すなわちこの揺らいでる恐ろしい幽霊が、種々のものを積み重ねた砦《とりで》の上に、目に見えない千二百の小銃を前にして立ち上がり、死よりも力強いかのように平然と死の面前につっ立った時、全防寨《ぜんぼうさい》は暗黒のうちにある超自然的な巨大な趣に変わった。
驚くべき事変の周囲に起こるような沈黙が落ちてきた。
その沈黙の中に、老人は赤旗を振って叫んだ。
「革命万歳! 共和万歳! 友愛、平等、および死!」
防寨の中にいた人々は、急いで祈祷《きとう》をする牧師のささやきに似たある低い早い言葉を聞いた。それはおそらく、街路の先端で規定どおりの勧告を行なってる警部の声であったろう。
それから、「何の味方か」と前に叫んだ同じ激しい声がまた叫んだ。
「おりろ!」
瞳《ひとみ》には心乱れた痛ましい炎が輝いてい、色青ざめ荒々しい様子をしたマブーフ氏は、頭の上に軍旗をかざして繰り返した。
「共和万歳!」
「打て!」と声は言った。
榴霰弾《りゅうさんだん》のような第二回のいっせい射撃が、防寨《ぼうさい》の上に落ちかかった。
老人は膝《ひざ》をついたが、また立ち上がり、軍旗を手から落とし、腕を組んで長々とあたかも一枚の板のように、後ろざまにあおむけに舗石《しきいし》の上に倒れた。
血潮は彼の下に流れた。色を失った悲しげな年取った顔は、空をながめてるがようであった。
我が身をまもることを忘れさせる人間以上のある感動に、暴徒らはとらえられた。彼らは恐懼《きょうく》の念をもってその死骸のまわりに集まった。
「弑虐人《しいぎゃくにん》ら([#ここから割り注]訳者注 ルイ十六世を処刑せし国約議会員ら[#ここで割り注終わり])は実に恐ろしい者どもだ!」とアンジョーラは言った。
クールフェーラックはアンジョーラの耳に口をよせてささやいた。
「これは君にだけの話だぜ、皆の熱誠を冷やしたくないから。あの老人は弑虐人ではない。僕は知ってる。マブーフ老人というんだ。今日はどうしてあんなことをしたのか僕にもわからない。無能な好人物だったがな。あの頭を見たまえ。」
「頭は無能でも、心はブルツス([#ここから割り注]訳者注 シーザーを刺した人[#ここで割り注終わり])だ。」とアンジョーラは答えた。
それから彼は声をあげた。
「諸君、これは老人が青年に示した模範である。われわれが躊躇《ちゅうちょ》してる所に、彼は出てきた。われわれが後ろに隠れてるのに、彼は前に進んだ。老年に震える人が恐怖に震える者に与えた教訓である。この老人は祖国の前においては偉大なるものである。彼は長き生と赫々《かっかく》たる死とを得たのである。今やわれわれはその死屍《しかばね》を保護しようではないか。われわれは皆、生ける父をまもるがようにこの死せる老人をまもろうではないか。そして、われわれのうちに彼があることをもって、防寨《ぼうさい》を難攻不落のものたらしめようではないか!」
沈鬱《ちんうつ》な力強い賛成のささやきが、その言葉に続いて起こった。
アンジョーラは身をかがめ、老人の頭をもたげ、猛然たる様子でその額に脣《くちびる》を当てた。それから彼は、死体の両腕を伸ばし、あたかもどこかを痛めはしないかと恐れるもののように細心な注意をしながら、その上衣をぬがせ、血のにじんだ多くの穴を皆に示しながら言った。
「今は、これこそわれわれの軍旗である。」
三 ガヴローシュにはアンジョーラの短銃が適す
マブーフ老人の死体の上には、ユシュルー上《かみ》さんの長い黒い肩掛けがかぶせられた。六人の男の銃で担架《たんか》を作り、それに死体をのせ、皆脱帽して荘厳な徐行で、居酒屋の下の広間の大きなテーブルの上に運んでいった。
それらの人々は、現在行なってるおごそかな神聖な仕事に気を取られて、もう危険な地位にあることも忘れてしまっていた。
死体が、元のとおり平然としているジャヴェルのそばを通った時、アンジョーラは彼に言った。
「貴様の番もすぐだ。」
その間少年ガヴローシュは、ただひとり部署を去らずに見張りをしていたが、数名の男がひそかに防寨《ぼうさい》に近づいて来るらしいのを見た。突然彼は叫んだ。
「気をつけろ!」
クールフェーラック、アンジョーラ、ジャン・プルーヴェール、コンブフェール、ジョリー、バオレル、ボシュエ、およびその他の者が、どっと居酒屋から出てきた。ほとんど間に合いかねるほどだった。見ると、銃剣の密集したひらめきが防寨の上に押し寄せていた。長躯《ちょうく》の市民兵が侵入してきたのである。あるいは乗り合い馬車をまたぎ越え、あるいは防寨の切れ目からはいり込んで、逃げもしないで徐々に後退してる浮浪少年を追いつめていた。
危機一髪の場合だった。洪水の折り、河水が堤防とすれすれに高まってそのすき間からあふれはじめるのと同じ、恐るべき瞬間だった。も一秒後れていたら、防寨《ぼうさい》は奪われていたに違いない。
バオレルはまっさきにはいり込んできた市民兵におどりかかり、カラビン銃をさしつけて一発の下にそれを殺した。しかし彼は次の市民兵から銃剣で殺された。またクールフェーラックも、もひとりの兵に打ち倒されて、「きてくれ!」と叫んでいた。兵士のうちでも巨人のような一番大きな男が、銃剣をつき出しガヴローシュをめがけて進んできた。浮浪少年はその小さな胸にジャヴェルの大きな銃を持ち、決然とその大男をねらい、引き金を引いた。しかしそれは発火しなかった。ジャヴェルは銃に弾薬をこめていなかったのである。市民兵は大笑して、銃剣を彼の上にさしつけた。
しかるにその銃剣がガヴローシュの身に触れる前に、銃は兵士の手から落ちた。一発の弾が飛びきたって、彼の額のまんなかを貫き彼をあおむけにうち倒した。また第二の弾は、クールフェーラックに襲いかかっていた兵士の、胸の中央に命中して、それを舗石《しきいし》の上に仆《たお》した。
それは、ちょうど防寨の中にはいってきたマリユスの仕業《しわざ》だった。
四 火薬の樽《たる》
マリユスは、しばらくモンデトゥール街の角《かど》に隠れて、戦いの最初の光景を見ながら、なお決断しかねて身を震わしていた。けれども、深淵《しんえん》の呼び声とも言うべき神秘な荘厳な眩惑《げんわく》に、彼は長く抵抗することができなかった。切迫してる危機、悲愴《ひそう》な謎《なぞ》たるマブーフ氏の死、殺されたバオレル、「きてくれ!」と叫んでるクールフェーラック、追いつめられてる少年、それを助けあるいはその讐《あだ》を報ぜんとしている友人ら、それらを眼前に見ては、あらゆる躊躇《ちゅうちょ》の情も消え失せてしまい、二梃《にちょう》のピストルを手にして混戦のうちにおどり込んだ。そして第一発で
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