轤黷スだろう。それがすなわち防寨《ぼうさい》のある場所だった。その他は靄《もや》深い重々しい痛ましい茫漠《ぼうばく》たる闇《やみ》で、その上に高く、サン・ジャックの塔や、サン・メーリーの会堂や、また人工のために巨人となり更に夜のために妖怪となってる二、三の広壮な堂宇が、気味悪い不動の姿をしてそびえていた。
寂然《せきぜん》たる恐ろしいその迷宮の周囲、人の行ききはまだ絶えていず、わずかな街灯がまだともってる町々には、サーベルや銃剣の金属性の光や、砲車の重い響きや、刻々に大きくなってゆく黙々たる軍隊の蝟集《いしゅう》など、すべて暴動の周囲を徐々にとり囲み引き締めてゆく恐るべき帯が、上からはっきり見て取られただろう。
攻囲された一郭は、もはや一種の恐ろしい洞窟《どうくつ》にすぎなかった。そこではすべてが眠っているかあるいは身動きもしないでいるように思えた。そして今述べたとおり、どの街路も皆ただ闇の中に包まれていた。
それこそ獰猛《どうもう》な闇であって、至る所に罠《わな》があり、至る所に何とも知れぬ恐るべき障害物があり、そこにはいりこむのは恐ろしく、そこに止まるのは更に恐怖すべきことであって、はいってゆく者らは待ち受けてる者らの前におののき、待ち受けてる者らはまさにきたらんとする者らの前に震えていた。目に見えない戦士らが街路のすみずみに潜んでいた。墳墓の口が暗夜の深みに隠れていた。万事は終わったのである。今やそこで期待さるるひらめきと言えば、ただ銃火のみであり、そこで期待さるる遭遇と言えば、ただ突然の急速な死の出現のみだった。いずこにて、いかにして、いつの時にか? それはだれにもわからなかったが、しかし確実であり避くべからざることであった。そこで、争闘のために闇でおおわれたその場所で、政府と反乱とは、国民兵と下層社会とは、市民と暴民とは、手探りに互いに接近しつつあった。いずれにとっても、同じ必然の運命があった。殺されて出《い》ずるかもしくは勝利者となって出ずるか、そればかりが今は唯一の出口だった。事実はきわめて切迫し、暗黒はきわめて力強く、最も臆病な者らも決意を感じ、最も勇敢な者らも恐れを感じていた。
また双方とも、憤激と熱中と決心とを同等に持っていた。一方にとっては、進むことは死でありながら、だれも退くことを思わなかった。他の一方にとっては、止まっていることは死でありながら、だれも逃げることを思わなかった。
必ずや翌日までにはすべてが決定し、勝利はいずれかの手に帰し、反乱は革命となるかあるいは暴挙に終わるかのほかはなかった。政府も一揆《いっき》も共にそれを了解し、一介の市民までもそれを感じていた。それゆえ、すべてが決せんとするその一郭の見通すべからざる暗黒のうちには、心痛の念が漂っていた。またそれゆえ、まさに覆滅が生ぜんとするこの沈黙の周囲には、いっそうの懸念が漂っていた。そしてそこに聞こゆるものは、ただ一つの響き、瀕死《ひんし》の喘《あえ》ぎに似た痛ましい響き、呪詛《じゅそ》の声に似た恐ろしい響き、すなわちサン・メーリーの警鐘の音のみだった。暗黒のうちに慟哭《どうこく》する狂乱し絶望せるその鐘の響きこそ、世に最も人を慄然《りつぜん》たらしむるものであった。
しばしば見らるるとおり、今や自然も人間がまさになさんとすることと調子を合わしてるようだった。その痛ましい両者の調和を何者も乱すものはなかった。星は姿を隠し、重々しい雲は陰鬱《いんうつ》な層をなして空の四方をおおっていた。死のごときその一郭の街路の上には暗い空がかぶさっていて、あたかもその広い墳墓の上に広大な喪布をひろげたようだった。
まだまったく政治的のみなる戦いが、既に多くの革命の事変を見たその一郭のうちに、しだいに準備されつつある間に、青春と秘密結社と学校とが主義の名において、また中流市民階級が利害の名において、互いに衝突し駆逐し争闘せんとして接近し合ってる間に、各人が足を早めて、危機の最後の決定的瞬間を喚《よ》び起こしてる間に、一方、その致命的なる一郭の外遠くに、幸福|栄耀《えいよう》なるパリーの光耀の下に隠れてるその古いみじめなるパリーの底知れぬ洞窟《どうくつ》の深みに、民衆の陰惨なる声の重々しくうなるのが聞こえていた。
それこそ恐るべきしかも聖なる声であって、獣の咆哮《ほうこう》と神の言葉とから成り、弱者をおびえさし賢者を戒め、獅子《しし》の声のごとく地から来るとともに雷電のごとく天から来るものであった。
三 最後の一端
マリユスは市場町に達していた。
そこは近傍の街路よりも、いっそう静かで暗くひっそりしていた。あたかも氷のごとき墳墓の静けさが、地からいでて空の下にひろがってるかと思われた。
けれども一条の赤い明るみが、シャンヴルリー街のサン・テュスターシュの方をふさいでる人家の高い屋根を、そのまっ暗な奥に浮き出さしていた。それはコラント亭の防寨《ぼうさい》の中に燃えてる炬火《たいまつ》の反映だった。マリユスはその赤い光の方へ進んでいった。そして野菜市場までゆくと、プレーシュール街の暗い入り口が見えた。彼はそこにはいって行った。向こうの端に立っていた暴徒の見張りは、彼の姿を見つけなかった。彼は今まで、さがし求めていたもののすぐそばにきたことを感じ、爪先《つまさき》で歩き出した。かくてモンデトゥール小路の短い街路の曲がり角《かど》まで達した。読者の記憶するとおり、それはアンジョーラが開いて置いた外部との唯一の交通路であった。最後の人家の角《かど》から左へ頭を出して、彼はモンデトゥール街の中をのぞき込んだ。
彼自身をも包む広い闇《やみ》を投じてるシャンヴルリー街とその小路との暗い角から少し先に、舗石《しきいし》の上のかすかな明るみと居酒屋の小部分と、その向こうには一種変な形の壁の中にちらついてる豆ランプと、銃を膝《ひざ》にのせてうずくまってる数名の男とを、彼は認めた。すべてそれらは彼から十間ばかりの所にあった。それは防寨《ぼうさい》の内部だった。
小路の右手に立ち並んだ人家は、居酒屋の他の部屋と、大きい方の防寨と赤旗とを、彼の目からさえぎっていた。
マリユスにはもはや一歩残ってるのみだった。
その時この不幸な青年は、ある標石の上に腰をおろし、腕を組み、そして父のことを思った。
彼は自分の父である勇壮なポンメルシー大佐のことを思った。大佐こそは、いかにも高邁《こうまい》な兵士であって、共和政府の下にあってはフランスの国境を守り、皇帝の下にあってはアジアの境にまで進みゆき、ゼノア、アレキサンドリア、ミラノ、トリノ、マドリッド、ウインナ、ドレスデン、ベルリン、モスコー、などの都市を見、ヨーロッパのあらゆる優勝戦場に、マリユス自身の血管の中にある同じ血潮の数滴を残し、規律と指揮との中に年齢にもまして白髪となり、常に剣帯をしめ、肩章は胸の上にたれ、帽章は火薬に黒ずみ、額には軍帽のために筋がつき、廠舎《しょうしゃ》に陣営に露営にまた野戦病院に夜を明かし、かくて二十年の出征の後に、頬《ほお》には傷痕《きずあと》を留め、顔はほほえみ、素朴で、平静で、崇高で、小児のごとく純潔で、フランスのためにすべてを尽し、何らフランスに反することをなさないで、大戦役から戻ってきたのであった。
彼は自ら言った。自分の日もまた到来したのである。自分の時も、ついに鳴らされたのである。父のあとに自分もまたこれから、毅然《きぜん》として勇敢に大胆に、弾丸の前を行ききし、銃剣に胸を差し出し、おのれの血を流し、敵をさがし、死をさがさんとするのである。今度は自分が戦いをなし、戦場におり立たんとするのである。しかも今、その戦場は街路であり、なさんとする戦いは内乱なのである!
彼は内乱が自分の前に深淵《しんえん》のごとく口を開いているのを見、そこに陥ってゆく自身を顧みた。
その時彼は身を震わした。
彼は祖父がある古物商に売り払ってしまった非常に惜しい父の剣のことを思った。彼は自ら言った。しかしその勇ましい潔い剣が、暗黒のうちにいら立って自分の所をのがれ去ってしまったのは、かえってよかったのである。そのように逃げ去ってしまったのも、賢くて未来を予見したからである。暴動を、溝の戦いを、舗石《しきいし》の戦いを、窖《あなぐら》の風窓からの銃火を、背後から与え合う剣撃を、予感したからである。マレンゴーやフリートラントの戦いを経て、シャンヴルリー街に行くことを欲しなかったからである。父とともにあれだけのことをなした後、その子の自分とともになすべきことを欲しなかったからである! 彼はまた自ら言った。もしその剣が今手もとにあったならば、もしその剣を死せる父の枕辺《まくらべ》から手に取って、街路におけるフランス人同志の夜戦のために、あえて持ち出していたならば、確かにそれは自分の手を焼きつくし、天使の剣のごとく、自分の前に炎を発し始めたであろう! また彼は自ら言った。その剣が今手もとになく行方《ゆくえ》知れずになったのは、仕合わせなことである。至当なことであり正当なことである。祖父こそかえって、父の光栄を真に守ってくれた人である。大佐の剣は、今日祖国の横腹を刳《えぐ》るよりも、競売に付せられ、古物商に売られ、鉄屑《てつくづ》の中に投げ込まれる方が、かえってよいでははないか。
そしてマリユスは苦《にが》い涙を流し始めた。
それは実にたまらないことであった。しかしどうしたらいいのか。コゼットなしに生きることは、彼にはとうていできなかった。彼女が出発した今となっては、彼はもう死ぬよりほかはなかったのである。自分は死ぬであろうと彼女に明言したではないか。彼女はそれを知りつつ出発した。それはマリユスが死ぬのを好んだからに違いない。そしてまた、彼女がもう彼を愛していないことは明らかだった。なぜならば、彼の住所を知りながら、ことわりもなく、一言の言葉もなく、一つの手紙も贈らず、そのまま出発したからである。今や、生も何の役に立つか、また何ゆえの生であるか! しかもここまでやってきながらまた後ろにさがろうとするのか、危険に近づきながら逃げようとするのか、防寨《ぼうさい》の中をのぞき込みながら身を隠そうとするのか。「要するに、もうそういうことはたくさんだ、はっきり見た、それで十分だ、単に内乱ではないか、足を返すべきである、」と言いながら、震えてのがれ隠れようとするのか。自分を待ってる友人らを見捨てようとするのか。彼らはおそらく自分の助力をも必要としてるだろう、一握りの人数をもって多数の軍隊に対抗せんとしているだろう! 愛にも、友情にも、誓いにも、すべてに同時に裏切ろうとするのか。自分の卑怯《ひきょう》さを愛国心の美名で装おうとするのか! 否それはでき難いことであった。そしてもし父の霊がそこに影の中にいて、彼が退こうとするのを見たならば、彼の腰に剣の平打ちを食わして叫んだであろう、「進み行け、卑怯者めが!」
種々の考えが入り乱れて、彼は頭をたれていた。
しかるに突然、彼はまた頭を上げた。一種の燦然《さんぜん》たる信念が彼の脳裏に浮かんだのである。墳墓の間近においては特に思想の明確をきたすものである。死のそばにあっては真の目が開けてくるものである。まさに参加せんとするその行動の幻が彼に現われた。それはもはや悲しむべきものではなく、壮大なものであった。市街戦は、ある内心の働きを受けて、彼の思想の目の前ににわかに姿を変えた。夢想のあらゆる疑問の群れは、騒然として彼の頭に浮かんできたが、彼は少しもそれに乱されはしなかった。彼はそれに一々答弁を与えた。
およそ、父は何ゆえに憤ることがあろうぞ。反乱も貴《とうと》い義務とまで高まりゆく場合がないであろうか。目前の戦いに身を投じても、ポンメルシー大佐の子として恥ずべき点がどこにあろう。もとよりそれはモンミライュやシャンポーベール([#ここから割り注]訳者注 ナポレオンがプロシャ及びロシヤの軍を敗りし所[#ここで割り注終わり])ではない、それは他
前へ
次へ
全73ページ中64ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング