サン・タントアーヌ郭外をながめていた。
サン・タントアーヌ郭外はひそかに熱せられて、沸騰しはじめていた。
シャロンヌ街の各居酒屋はまじめで喧騒《けんそう》であった。こう二つの形容詞を並べて居酒屋につけるのは少し変に思われるかも知れないが、それは実際であった。
政府はそこで、純然とまた事もなげに問題とされていた。人々はそこで公然と、それは挑戦すべきものかあるいは手をこまぬいて見ているべきものか[#「それは挑戦すべきものかあるいは手をこまぬいて見ているべきものか」に傍点]を論じ合った。奥の室《へや》があって、そこで労働者らに誓わした、「警報を聞くや直ちに街頭にいで、敵勢の多少にかかわらず戦うべし」と。一度誓いがなさるるや、酒場の片すみにすわってるひとりの男が「響き渡る声をして」言った、「いいか[#「いいか」に傍点]、貴様は誓ったのだぞ[#「貴様は誓ったのだぞ」に傍点]!」時としては二階に上がってしめ切った室にはいり、そこでほとんど秘密結社的な光景が演ぜられた。新加入者には、家父に仕うるがごとく仕えん[#「家父に仕うるがごとく仕えん」に傍点]という宣誓をなさした。そういうのが定まった形式であった。
表の広間では、人々は「破壊的の」小冊子を読んでいた。彼らは政府を[#「彼らは政府を」に傍点]打擲《ちょうちゃく》していた[#「していた」に傍点]と当時の一秘密報告は言っている。
そこでは次のような言葉が聞かれた。「俺は首領どもの名前も知らねえ[#「俺は首領どもの名前も知らねえ」に傍点]。俺たちの方にはわずか二時間前にその日がわかるだけだ[#「俺たちの方にはわずか二時間前にその日がわかるだけだ」に傍点]。」ひとりの労働者は言った、「俺たちは三百人だ[#「俺たちは三百人だ」に傍点]。一人前十スーずつとしても[#「一人前十スーずつとしても」に傍点]、弾と火薬の代が百五十フラン集まるわけだ[#「弾と火薬の代が百五十フラン集まるわけだ」に傍点]。」他の労働者は言った、「六カ月とはかからねえ[#「六カ月とはかからねえ」に傍点]、二カ月ともかからねえや[#「二カ月ともかからねえや」に傍点]。半月とたたねえうちに政府と肩を並べられるさ[#「半月とたたねえうちに政府と肩を並べられるさ」に傍点]。二万五千人ありゃあ負けやしねえ[#「二万五千人ありゃあ負けやしねえ」に傍点]。」またもひとりの労働者は言った、「俺は寝もしねえや[#「俺は寝もしねえや」に傍点]、夜分に弾薬をこしらえてるんだ[#「夜分に弾薬をこしらえてるんだ」に傍点]。」時には「りっぱな服装をした中流民らしい」者らがやってきて、「一座をまごつかせ」ながら、「命令でもするような」様子をして、頭立った者[#「頭立った者」に傍点]らに握手をして、また出て行った。彼らは決して十分間以上と留まってることはなかった。人々は意味深い言葉を低い声でかわした、「謀は熟し[#「謀は熟し」に傍点]、事は完備している[#「事は完備している」に傍点]。」そこに居合わしたひとりの者の言葉をそのまま借りて言えば、「そこにいるすべての者ががやがやつぶやいていた。」興奮は非常なもので、ある日などは、酒場のまんなかでひとりの労働者が叫んだ、「俺たちには武器がねえ[#「俺たちには武器がねえ」に傍点]。」仲間のひとりはそれに答えた、「兵士らは持ってる[#「兵士らは持ってる」に傍点]。」かくて知らず知らずにイタリー軍に対するナポレオンの宣言をまねていた([#ここから割り注]訳者注 ナポレオンの宣言の一句―兵士らよ汝らは何物も有せずしかも敵はすべてを有せり[#ここで割り注終わり])。一報告はつけ加えて言っている、「何かいっそう秘密なことの場合には、彼らはその場所でそれを伝え合いはしなかった。」しかし、前のようなことを公然と言った後で何を隠すべきものがあったかほとんど了解に苦しむところである。
集合は時として時日が定まっていた。ある時には決して八人から十人までを越すことがなく、集まる者も常に同じ人であった。またある時には、だれでもはいることができ、部屋《へや》はいっぱいになって立っていなければならなかった。ある者は心酔と熱情とをもってやってき、ある者は仕事に出かける通り道[#「仕事に出かける通り道」に傍点]だからやってきた。革命の時と同じく、それらの居酒屋のうちには愛国主義の女らがいて、新しくやって来る者らを抱擁した。
その他種々の意味深い事柄も現われていた。
ひとりの男が酒場にはいってきて、酒を飲み、そして出てゆく時に言った、「おい御亭主[#「おい御亭主」に傍点]、代は革命が払ってくれるよ[#「代は革命が払ってくれるよ」に傍点]。」
シャロンヌ街と向き合ったある酒場では、革命の役員らが選ばれた。投票は帽子の中に投ぜられた。
数名の労働者らは、コット街で太刀打ちを教えてる撃剣の先生のうちに集まっていた。木刀や杖や棒や竹刀などでできてる武器の装飾がしてあった。ある日彼らはその竹刀の鋒球を皆取り払った。ひとりの労働者は言った、「俺たちは二十五人だ[#「俺たちは二十五人だ」に傍点]。だがだれも俺を[#「だがだれも俺を」に傍点]木偶《でく》だと思いやがって目にも止めてくれねえ[#「だと思いやがって目にも止めてくれねえ」に傍点]。」その木偶は後にケニセーとなって名を現わした。
あらかじめ計画されてる事柄が、しだいに一種不思議な明らかな姿を取ってきた。戸口を掃除《そうじ》してたひとりの女が他の女に言った、「もうだいぶ前から一生懸命に弾薬が作られてるよ[#「もうだいぶ前から一生懸命に弾薬が作られてるよ」に傍点]。」また各県の国民軍に対する宣言が公然と大道で読まれていた。それらの宣言の一つには、酒商ブュルトー[#「酒商ブュルトー」に傍点]と署名してあった。
ある日、ルノアール市場《いちば》の一軒の酒屋の門口で、濃い頤髯《あごひげ》のあるイタリー音調のひとりの男が、車除石の上に上って、神通力を発散してるかと思われるような不思議な文を声高に読み立てていた。まわりには大勢の人が集まって喝采《かっさい》していた。群集を最も動かした部分は、そこだけぬき取って筆記された。――「吾人の主義は妨害せられ、吾人の宣言は引き裂かれ、ビラをはる吾人の仲間らは、待ち伏せられて獄に投ぜられたのである。」――「最近の綿糸の下落は、多くの中立者らを吾人の説に帰依せしめた。」――「民衆の未来は吾人のひそかな仲間のうちに成生しつつある。」――「提出せられたる条件はこうである、行動かもしくは反動か、革命かもしくは反革命か。なぜかなれば、現代においてはもはや無為も不動も信ずることはできないからである。民衆に味方するかもしくは民衆に反対するか、それが問題である。他に問題は一つもない。」――「吾人が諸君の意に満たざる日には、吾人を踏みつぶすがよい。しかしそれまでは吾人の行進を助けるがよい。」しかもすべてそれらのことは白昼公然と叫ばれたのである。
なおいっそう大胆な他の事実を、それが大胆なものであるだけに、民衆はよく推察していた。一八三二年四月四日、サント・マルグリット街の角にある車除石の上に、ひとりの通行人は上って叫んだ、「僕はバブーフ派である。」しかし民衆は、バブーフの下にいっそうの過激派ジスケをかぎ出した。
その通行人は種々のことを言ったが、中にも次のような言葉があった。
「所有権をうち倒せ! 左党の反対は卑劣にして不信実である。口実を得ようと欲する時に左党は革命を説く。攻撃せられないためには民主派となり、戦わないためには王党派となる。共和党らは鳥の羽を持った獣である。共和党らを信ずるな、労働者諸君よ。」
「黙れ、間諜《スパイ》めが!」とひとりの労働者は叫んだ。
その一声で演説は終わりとなった。
また種々の不思議な事が起こっていた。
日の暮れ方、ひとりの労働者は掘割りの近くで、「りっぱな服装をしたひとりの男」に出会った。男は言った、「君、どこへ行くんだ?」労働者は答えた、「旦那《だんな》、わしはあなたをしりませんが。」「僕の方では君をよく知ってる」、と言って男はまたつけ加えた、「気づかわなくてもいい。僕は委員会の役員だ。君はどうも不安心だと皆から言われている。何かもらしはしないかと、いいか君は目をつけられてるんだぞ。」それから彼はその労働者に握手を与えて、立ち去りながら言った、「またすぐに会おう。」
警察の方では立ち聞きをしながら、もはや居酒屋の中ばかりではなく、往来ででも奇怪な対話を聞き取った。
「早く入れてもらえよ。」とひとりの織り物工が指物師《さしものし》に言った。
「なぜだい。」
「もうすぐに鉄砲を打たなきゃならねえからさ。」
ぼろをまとったふたりの通行人が、明らかにジャックリー([#ここから割り注]訳者注 百姓一揆[#ここで割り注終わり])めいた粗雑な注意すべき言葉をかわした。
「俺たちを治めてるなあだれだと思う?」
「フィリップさんさ。」
「いや、中流民たちだ。」
われわれがここにジャックリー[#「ジャックリー」に傍点]という言葉を悪い意味に取ってると思ってはまちがいである。ジャックリーの者らはすなわち貧しい者らである。しかるに飢えてる者らは権利を持っている。
またある時は、ふたりの通行人のひとりがもひとりのに言っていた、「攻撃のうまい計画ができてるんだ。」
トローヌ市門の広場の溝《みぞ》の中にうずくまってた四人の男の親しい会話から、次の言葉だけが聞き取られた。
「これからあれがパリーの中をうろつき回らねえようにするため、できるだけのことがされるんだ。」
あれ[#「あれ」に傍点]とはいったいだれであるか? 不分明なるだけになお更気味の悪い言葉である。
郭外においていわゆる「重立った首領」と言われていた人々は、普通の者と別になっていた。会議をする時には、サン・テュスターシュ崎の近くにある居酒屋に集まるのだと、一般に思われていた。モンデトゥール街にある裁縫工救済会の幹部たるオー……とかいう男が、その首領らとサン・タントアーヌ郭外との間の仲介者の中心になってると言われていた。それにもかかわらず、首領らの上にはいつも深い影がたれていて、何ら確かな事実はわからなかった。その後高等法院で一被告がなした妙に傲然《ごうぜん》たる次の答弁をへこますような証拠さえ、一つも上がらなかった。
「お前の首領はだれだったか。」
「首領の名前はいっこう知りませんでした[#「首領の名前はいっこう知りませんでした」に傍点]、顔も覚えてやしませんでした[#「顔も覚えてやしませんでした」に傍点]。」
それらのことはまだ、およそ推察はつくがしかし漠然《ばくぜん》たる言葉にすぎなかった。時とすると、風貌や噂《うわさ》や又聞きにすぎなかった。ところが他の兆候が現われてきた。
ひとりの大工が、ルーイイー街で、普請中の屋敷のまわりに板囲いをこしらえていた時、屋敷の中に引き裂かれた手紙の一片を見いだした。それには次の数行がまだ明らかに読まれた。
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「……各種の団結を作らんとして区隊の者を引き抜くことを禁ずるために、委員会は何らかの手段を講じなければならない……」。
[#ここで字下げ終わり]
そしてその追白にはこう書いてあった。
[#ここから2字下げ]
「われわれの知るところによれば、フォーブール・ポアソンニエール街五番地(乙)の武器商の中庭に、五、六千|梃《ちょう》の小銃がある。わが区隊は目下武器をまったく有していない。」
[#ここで字下げ終わり]
またその大工が非常に不思議がって近所の者らに見せた物が一つあった。それは手紙の落ちてた所から数歩先で彼が拾ったも一つの紙片だった。同じく引き裂かれてはいたが手紙よりもいっそう意味ありげなものだった。われわれはここに、それらの不思議な記録を歴史的興味の上から書き写してみよう。
[#紙片の図、図省略]
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(訳文)
この表を暗記せよ。しかる後に裂き捨てよ。新加入者ら
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