黷驍烽フである。
マリユスは鉄棒を動かし、庭の中に飛び込んだ。コゼットはいつも彼を待っていてくれる例の所にいなかった。彼は藪《やぶ》の間を通りぬけ、踏み段のそばの奥まった所まで行った。「そこで待ってるのだろう、」と彼は言った。しかしコゼットはそこにもいなかった。目を上げると、家の雨戸は皆閉ざされていた。庭を一回りしたが、やはりだれもいなかった。その時彼は家の前へ戻ってき、愛のために我を忘れ、悲しみと不安とのために惑乱しおびえいら立って、時ならぬ時間に家に帰ってきた主人《あるじ》のように、雨戸をうちたたいた。たたきにたたいた。窓があけられ父親の恐ろしい顔が現われ「何だ?」と尋ねられる危険をも顧みなかった。心に待ち望んでいることに比ぶればそれは取るに足らぬことだった。たたき終えた時、彼は声をあげて「コゼット!」と叫んだ。「コゼット!」と激しく繰り返した。何の答えもなかった。万事は終わっていた。庭にはだれもいず、家の中にもだれもいなかった。
マリユスは、墳墓のように暗く黙々としてしかもいっそう空虚なその悲しい家に絶望の目を据えた。コゼットのそばで幾多の楽しい時間を過ごした石の腰掛けをながめた。それから踏み段の上にすわり、心は情愛と決意とに満ち、胸の奥で自分の愛を祝福し、コゼットが出発してしまった今となってはもはや死ぬのほかはないと自ら言った。
突然彼は人の声を聞いた。それは街路から来るもののようで、木立ち越しに叫んでいた。
「マリユスさん!」
彼は身を起こした。
「ええ?」と彼は言った。
「マリユスさん、あなたそこにいるの?」
「ええ。」
「マリユスさん、」とその声はまた言った、「お友だちがみなあなたを、シャンヴルリー街の防寨《ぼうさい》で待っています。」
その声は彼のまったく知らないものではなかった。何だかエポニーヌの荒いつぶれた声に似寄っていた。マリユスは鉄門の所に走ってゆき、動く棒を押し開き、その間から頭を出した。見ると、若い男らしく思われる一人の者が、向こうへ走りながら暗がりの中に消えていった。
三 マブーフ氏
ジャン・ヴァルジャンの財布はマブーフ氏には何の役にも立たなかった。マブーフ氏はその子供らしい尊い謹厳さをもって、天の賜物をも決して受納しなかった。星がルイ金貨になり得るとは考えられなかった。天から落ちてきたものは実はガヴローシュからきたものであるとは、思いつくことができなかった。彼はその財布を所轄の警察署へ持ってゆき、請求者の意のままに拾い主から届け出でた拾得物だとして置いてきた。実際その金入れは落とされたものだった。がもちろんそれを請求する者もなかったし、さりとてマブーフ氏を救うものともならなかった。
それにまたマブーフ氏は、相変わらず坂道を下へと下《くだ》りつつあった。
藍《あい》の試培は、オーステルリッツの庭におけると同じく、動植物園においても成功しなかった。前年から婆さんの給金も借りになっていたが、前に言ったとおり今では家賃も数期分たまっていた。質屋は彼の特産植物誌[#「特産植物誌」に傍点]の銅版を、十三カ月預っていた後売り払ってしまった。ある鋳物師がそれで鍋《なべ》をこしらえたそうである。銅板がなくなってしまえば手もとにある特産植物誌[#「特産植物誌」に傍点]のはしたの本は完成することができないので、その木版と本文とをもはんぱ物[#「はんぱ物」に傍点]としてある古本屋に捨値《すてね》で譲ってやった。彼にはもはや一生を費やした著作物から残ってる物は何もなかった。彼はその書物の代を食い始めた。そしてそのわずかな金がつきてしまった時、庭の仕事も止めて荒れるに任した。以前から、もうずっと以前から、時々食べる二つの鶏卵と一片の肉片をも廃していた。食事はパンと馬鈴薯《ばれいしょ》だけになっていた。残ってる家具をも売り払い、次には夜具や着物や毛布なども二枚あるものは一枚売り、次には植物の標本や版画などを売った。しかし、なおごく貴重な書物は残していた。そのうちには非常な珍本が幾らもあって、特に次のようなのはすぐれたものだった。聖書歴史年譜[#「聖書歴史年譜」に傍点]、一五六〇年版。各聖書要目索引[#「各聖書要目索引」に傍点]、ピエール・ド・ベス著。マルグリットの諸マルグリット[#「マルグリットの諸マルグリット」に傍点]、ジャン・ド・ラ・エー著、ナヴァール女皇への捧呈文付き。大使の職員および品位につきて[#「大使の職員および品位につきて」に傍点]、ヴィリエ・オットマン閣下著。一六四四年版のユダヤ美文集[#「ユダヤ美文集」に傍点]一冊。「ヴェニス[#「ヴェニス」に傍点]、マヌチアニス家において[#「マヌチアニス家において」に傍点]」という金ぴかの銘がついてる一五六七年版のチブルスの詩集一冊。終わりにディオゲネス・ラエルチオスの著書一冊、これは一六四四年にリオンで印刷されたもので、中には、ヴァチカンにある十三世紀物の第四一一の写本の有名な異文が掲げてあり、またヴェニスにある第三九三と第三九四との両写本の異文も掲げてあって、アンリ・エスティエンヌのみごとな校合の結果でき上がったものであり、それからまた、ナポリの図書館にある十二世紀物の有名な写本の中にしかないドリア語の全文もついている。かくてマブーフ氏はもう決して室《へや》に火をたかず、また蝋燭《ろうそく》を使わないようにと明るいうちから寝床にはいった。親しい者もなくなったかのようで、外出すればいつも人に避けられた。彼自身もそれに気づいていた。子供の難渋は母の心を動かし、若い男の難渋は若い娘の心を動かすが、老人の難渋はだれからも顧みられないものである。それはあらゆる困苦のうちでも最も冷たいものである。けれどもマブーフ老人は、子供のような清朗さをまったく失ってはいなかった。自分の蔵書を見る時には、眸《ひとみ》に多少の元気が現われ、世にただ一部きりないディオゲネス[#「ディオゲネス」に傍点]・ラエルチオス[#「ラエルチオス」に傍点]をながめる時には、顔に微笑が上った。ガラス戸のついてるその書棚は必要な品を除いては彼が残して置いた唯一の家具であった。
ある日、プリュタルク婆さんは彼に言った。
「夕御飯を買う金がありません。」
彼女が夕御飯と言ったのは、実は一片のパンと四つか五つかの馬鈴薯《ばれいしょ》とであった。
「後払《あとばら》いにしたら?」とマブーフ氏は言った。
「だれもそんなことをしてくれないのは御承知ではありませんか。」
マブーフ氏は書棚を開き、あたかも自分の子を一人犠牲にしなければならない父親がどれにしようかと大勢の子をながめるがように、蔵書を長い間かかって一つ一つながめ、それから急にその一冊を取り、それをわきにかかえ、そして出て行った、二時間たって彼は、小わきを空《から》にして帰ってき、テーブルの上に三十スーの金を置いて言った。
「これで夕飯をしたくしてくれ。」
その時からプリュタルク婆さんは、老人の清澄な顔の上に暗い影がさすのを見た。その影はついに再び晴れることがなかった。
翌日も、その翌日も、日々同じことをくり返さなければならなかった。マブーフ氏は一冊の書物を持って出かけてゆき、少しの金を手にして戻ってきた。古本屋は彼が是非とも売らなければならないのを見て取って、二十フランもしたものを二十スーくらいに買い取った。時とすると同じ店でそういう目に会うこともあった。一冊一冊と蔵書は減っていった。おりにふれて彼は言った、「だが私はもう八十歳だから。」それはあたかも、書物が尽きない前に自分の余生が尽きることをひそかに望んでいるようだった。悲しみは増していった。けれども一度彼に喜ばしい事が起こった。彼はロベール・エスティエンヌ版の書物を一冊持って出かけ、マラケー河岸でそれを三十五スーに売り、そしてグレー街で四十スーで買ったアルド版の書物を一冊持って帰ってきた。「私は五十スー借りた、」と彼は顔を輝かしながらプリュタルク婆さんに言った。その日彼は夕食をしなかった。
彼は園芸協会にはいっていた。会員は皆彼の貧窮を知っていた。会長は彼を訪れてき、彼のことを農商務大臣に話してやろうと約束し、そして実際それを果たした。大臣は叫んだ。「ははあなるほど、よくわかった。老人で、植物学者で、おとなしい好人物だと。何とかしてやらずばなるまい!」その翌日、マブーフは大臣邸へ晩餐《ばんさん》の招待を受けた。彼は喜びに震えながらその手紙をプリュタルク婆さんに見せた。「これで助かった!」と彼は言った。定日に彼は大臣の家へ行った。そして自分の皺《しわ》くちゃになった襟飾《えりかざ》りや、角張った大きな古上衣や、やたらに靴墨《くつずみ》を塗りたてた靴などが、接待人らを驚かしたことを見て取った。だれも彼に言葉をかけなかった。大臣すら言葉をかけなかった。十時ごろになって、なお何かの挨拶《あいさつ》を待っていると、胸をあらわにした近寄れそうにもない美しい大臣夫人が、人に尋ねている声を聞いた、「あのお年寄りは何という人ですか?」彼は徒歩で、ま夜中に、雨の降る中を自分の家に帰ってきた。しかもそこへ行く時の馬車代を払うためにエルゼヴィル版の書物を一冊売ったのである。
毎晩寝る前に、彼はディオゲネス[#「ディオゲネス」に傍点]・ラエルチオス[#「ラエルチオス」に傍点]の数ページを読む習慣になっていた。その書物の原文の妙味を味わい得るくらいにはギリシャ語の力があった。今ではもうそれ以外に何の楽しみもなくなっていた。数週間過ぎ去った。すると突然プリュタルク婆さんが病気になった。パン屋からパンを買う金もないことより、いっそう悲しいことがあるとすれば、それは薬屋から薬を買う金もないことである。ある晩、医者はごく高価な薬を命じた。その上、病気は重ってきて看護婦も必要だった。マブーフ氏は書棚を開いた。もう売るものは何にもなかった。最後の一冊もなくなっていた。残っているのは、ただディオゲネス[#「ディオゲネス」に傍点]・ラエルチオス[#「ラエルチオス」に傍点]だけだった。
彼は世にまたとないその一冊の書物を腕にかかえて出かけていった。一八三二年六月四日だった。サン・ジャック市門のロアイヨルの後継者の家に行き、百フラン持って帰ってきた。そして年取った召し使いの枕頭《まくらもと》のテーブルに、五フラン貨幣をつみ重ね、一言も言わないで自分の室《へや》に戻った。
翌日、夜が明けると、彼は庭の中に横たわってる標石に腰をおろしていた。額をたれ、しぼみはてた花床の上にぼんやり目を定めて、その朝中身動きもしないでいる彼の姿が、籬《まがき》越しに見られた。ときどき雨が降ったが、老人はそれに気もつかぬらしかった。午後になると、異常な響きがパリーの市中に起こった。小銃の音と群集の喊声《かんせい》とのようであった。
マブーフ老人は頭を上げた。ひとりの園丁が通るのを見て彼は尋ねた。
「あれは何かね。」
園丁は鍬《くわ》をかついだまま、きわめて平気な調子で答えた。
「暴動ですよ。」
「なに、暴動?」
「ええ。戦《いくさ》をしています。」
「何でまた戦をするんだ。」
「さあなんだか。」と園丁は言った。
「どっちの方だ。」
「造兵廠《ぞうへいしょう》の方です。」
マブーフ老人は家に入り、帽子を取り、小わきにはさむべき書物を機械的にさがしたが、一冊もなかった。「ああそうだった!」と彼は言った。そして我を忘れた様子で出て行ってしまった。
[#改ページ]
第十編 一八三二年六月五日
一 問題の表面
暴動の要素は何であるか? 何もないとも言えるし、あらゆるものだとも言える。しだいに発してくる電気、突然ほとばしり出る炎、彷徨《ほうこう》してる力、過ぎゆく息吹《いぶき》、などからである。この息吹は、思索する頭、夢想する脳、苦しむ魂、燃え立つ熱情、喚《わめ》き立てる悲惨、などに出会って、それらを運び去る。
どこへ?
どこへというあてはない。国家や法律や他人の繁栄と横暴などをよぎって、どこ
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