A〔vergeoise, te^te, clairce', tape, lumps, me'lis, ba^tarde, commun, bru^le', plaque.〕([#ここから割り注]砂糖の種類[#ここで割り注終わり])などというも隠語である。二十年前の一派の批評家らはこういうことを言った。〔La moitie' de Shakespeare est jeux de mots et calembours.〕([#ここから割り注]セークスピアの半ばは洒落や地口である。[#ここで割り注終わり])それも隠語である。詩人や美術家が、モンモランシー氏のことを、彼が詩や彫像なんかに通じていないとして、深い意味でun bourgeois([#ここから割り注]一個の俗物[#ここで割り注終わり])と呼ぶだろうとすれば、それも隠語である。アカデミー会員の古典派は、次のような隠語を使った。
[#ここから4字下げ]
花……Flore.([#ここから割り注]フロラ神[#ここで割り注終わり])
果物……Pomone.([#ここから割り注]ポモナ神[#ここで割り注終わり])
海……Neptune.([#ここから割り注]ネプチューン神[#ここで割り注終わり])
愛……feux.(火)
美……appas.([#ここから割り注]魅力[#ここで割り注終わり])
馬……coursier.(駒)
白色や三色の帽章……rose de Bellone.([#ここから割り注]ベロナ神の薔薇[#ここで割り注終わり])
三角帽……triangle de Mars.([#ここから割り注]マルス神の三角[#ここで割り注終わり])
[#ここで字下げ終わり]
代数学や医学や植物学にも、皆それぞれ隠語がある。また船の上で使われる言葉、ジャン・ハールやデュケーヌやスュフランやデュペレなどが使った完全なおもしろいあのみごとな海の言葉、綱具や通話管や繋船具《けいせんぐ》などの音と動揺や風や疾風《はやて》や大砲などに交じったその言葉、それも皆勇壮激越な隠語であって、盗賊らの猛悪な隠語に対しては、狼《おおかみ》に対する獅子《しし》のごときものである。などと世人はいうであろう。
もちろんそれに違いない。いろいろ説はあろうけれど、しかし隠語という語をそういう風に解釈するのは余り広義に失するものであって、万人を首肯させることはできないだろう。我々はこの語に、明瞭な狭い一定の古来の意味をのみ与えたい。そして隠語をただ本来の隠語にのみ限りたいのである。もしいい得べくんば真の優《すぐ》れたる隠語は、一王国を形成していた古代の隠語は、繰り返していうが、悲惨自身の言語に外ならないもので、醜い、不安な、狡猾《こうかつ》な、陰険な、有毒な、残忍な、曖昧《あいまい》な、賤しい、深い、宿命的なものである。あらゆる淪落《りんらく》とあらゆる不運との極端に、最後の一悲惨が存するものであって、この悲惨は猛然と反抗して立ち、幸福な事実や勢力ある権利などの全体に対して決然と戦いを宣するのである。それこそ恐るべき闘争であって、この悲惨は、あるいは狡獪《こうかい》となりあるいは猛烈となり、有害にまた同時に獰猛《どうもう》となって、悪徳の針をもって社会の秩序を攻撃し、罪悪の棍棒《こんぼう》をもって社会の秩序を攻撃する。そしてかかる闘争の要求に応じて、悲惨は一つの戦闘語を作り出した。それがすなわち隠語である。
人間にかつて話されはしたがついには滅ぶるかも知れないある言葉を、言い換えれば、善にせよ悪にせよ文明を組み立て複雑ならしむる要素の一つを、たといその一片たりとも、忘却の上に、深淵《しんえん》の上に、浮き出させ存続させることは、社会観察の視野をひろげることであり、文明に奉仕することである。プラウツスはカルタゴのふたりの兵士にフェーニキア語を話させながら、故意にか偶然にかかかる仕事をした。モリエールは多くの人物に東方語やあらゆる方言を話させながら、かかる仕事をした。そういえばまた異議が起こるだろう。「フェーニキア語は素敵だ。東方語はいい。方言もまあ許される。それらはある国やまたある地方に属していたものである。しかし隠語は何だ。隠語を保存して何になるか。隠語を浮かび上がら[#「浮かび上がら」に傍点]して何になるか。」
それに対して我々はただ一言答えよう。確かに、一国もしくは一地方が話した言葉が興味に価するならば、注意と研究とに一層よく価するものが他に一つある、それは一悲惨が話した言葉である。
それは、たとえばフランスにおいて、既に四世紀以上の間、一悲惨ではなくて全悲惨が、おおよそ可能なる人間の悲惨が、話しきたった言葉である。
そしてまた、我々はあえて主張するが、社会上の奇形と廃疾とを研究し、それらを治癒《ちゆ》せんがために摘発することは、あれこれと選択が許される仕事ではない。風俗と思潮との歴史家は、事件の歴史家と同じく、厳粛なる使命を持っている。事件の歴史家が有するところのものは、文明の表面、王位の争い、王侯の出生、国王の結婚、戦争、集会、世に立った偉人、白日の革命、すべて外部のものである。しかるに風俗と思潮との歴史家が有するところのものは、文明の内部、奥底、すなわち働き苦しみかつ希求せる民衆、重荷の下の婦人、呻吟《しんぎん》せる子供、人と人との暗黙の争い、世に知られぬ悪虐、偏見、人為の不正、法律の地下の反撃、魂のひそかな進化、群集のかすかな戦慄《せんりつ》、餓死、跣足《はだし》、裸腕、無産者、孤児、不幸なる者、汚辱を受けたる者、すべて暗黒のうちをさ迷える幽鬼らである。そして、兄弟のごとくまた法官のごとく、同時に慈愛と峻厳《しゅんげん》とに満ちた心をもって、なかなかはいれない地下の洞穴《どうけつ》まで下ってゆかなければならない。そこには、血を流す者やつかみかかる者、泣く者やののしる者、食なき者や貪《むさぼ》り食う者、自ら苦しむ者や人を苦しめる者などが、雑然とはい回っているのである。かかる心や魂の歴史家の務めは、外的事実の歴史家の務めよりも小なることがあろうか? ダンテのいうべきことは、マキアヴェリのいうことよりも少ないと信ずる人があろうか。文明の下層は、ごく深く暗いがゆえに、上層ほどに重要でないといえるだろうか。洞穴を知らない時、人はよく山岳を知ることができるであろうか。
なお序《ついで》に一言するが、人は右の言葉よりして、この二種の歴史家の間に、両者をへだつる溝渠《こうきょ》が存すると推論するかも知れないけれども、それは我々のいうところを誤解したものである。民衆の明白な顕著な公な見える生活の歴史家といえども、また同時にある程度までは、その深い隠れたる生活の歴史家たるでなければ、優れたる者とはいえない。そして、民衆の内生活の歴史家といえども、また必要に応じてその外生活の歴史家たるでなければ、優れたる者とはいえない。風俗と思潮との歴史と事件の歴史とは、互いに深くからみ合ってるものである。それは事実の異なった二方面であって、互いに依存するものであり、常に連繋《れんけい》するものであり、大抵は互いに他を発生し合うものである。天が一国民の表面に描くあらゆる相貌《そうぼう》は、その底にあるものと隠密なしかし整然たる平衡を保ち、底のあらゆる動揺はまた表面の波紋を生ぜしむる。真の歴史はすべてに関係を有し、真の歴史家はすべてに交渉を有する。
人間はただ一つの中心を持つ円ではない。二つの中心を持つ楕円《だえん》である。事実は一つの中心であり、思想はも一つの中心である。
隠語は、何かの悪事をなす時に言語が仮装するその衣服部屋に外ならない。そこで言語は、仮面の言葉とぼろの比喩《ひゆ》とを身にまとう。
かくしてこの言語は恐ろしい姿になる。
もはやその本来の顔はほとんど認められない。これは果たしてフランス語であろうか、人間の大国語であろうか? 既に舞台に上がるばかりになっており、罪悪に台辞《せりふ》を与えるばかりになっている。悪の芝居のあらゆる人物にふさわしいものとなっている。もはやまっすぐに歩かないで跛《びっこ》を引いている。クール・デ・ミラクル([#ここから割り注]訳者注 昔乞食や浮浪人らの集まっていたパリーの一部[#ここで割り注終わり])の撞木杖《しゅもくづえ》にすがって、棍棒《こんぼう》に変わり得る撞木杖にすがって歩いている。自ら無宿者《やどなし》と称している。あらゆる妖怪《ようかい》はその衣裳方となって彼を扮装《ふんそう》してやったのである。はいつつ立っている。爬虫類《はちゅうるい》の二重の歩き方である。かくて彼はあらゆる役目に適するようになる。詐欺者からは曖昧《あいまい》な色になされ、毒殺者からは緑青の色になされ、放火犯人からは煤《すす》の色になされ、殺害者からはまっかな色をもらっている。
正直な人々の方に身を置いて、社会の戸口に耳を澄ますと、外にいる者らの対話を盗み聞くことができる。問いと答えとははっきり聞き分けられる。そしてその内容はわからないで、ただ人間の音調らしいものが、否むしろ言葉というよりも吠《ほ》え声に近いものが、気味悪く鳴り響いているかと思われる。それは隠語である。その単語は形がゆがんでいて、いい知れぬ奇怪な獣性をそなえている。あたかも水蛇《みずへび》の話を聞くがようである。
それは暗黒中にある不可知なるものである。その謎《なぞ》によって闇《やみ》を一層深くしながら、鋭くまた低く響いている。不幸の中はまっくらであり、罪悪の中は一層まっくらである。その二つの闇が結合して隠語を作る。大気の中も闇であり、行為の中も闇であり、声のうちも闇である。しかし、雨と夜と飢えと不徳と欺瞞《ぎまん》と不正と裸体と窒息と厳冬などでできているこの広い灰色の靄《もや》の中を、行き、きたり、飛び回り、はい回り、のさばり歩き、奇怪に動き回ってるその恐るべき蟇《がま》の言語も、悲惨なる者らにとっては白日なのである。
懲戒を受けた者らに同情を持とうではないか。ああ、我々自身も果たして何であるか。これを語る私自身は何であるか。これを聞く汝ら自身は何であるか。我々はどこからきたのであるか。生まれる前にも何ら罪を犯さなかったと確言し得らるるか。この世は牢獄に似ているところがあるではないか。人は神の裁きを受けていないとは、だれが知ろう。
近寄って人生をながめるがいい。人生は至る所に刑罰を感ぜさせるようにできている。
汝は人に幸福といわるる身分であるか。しかも汝は毎日悲しんでいるではないか。一日には一日の大なる苦しみがあり、あるいはまた小さき心配がある。昨日は親しき者の健康について戦《おのの》き、今日はおのれの健康について気づかっている。明日は金銭上の心配、明後日は誹謗者《ひぼうしゃ》の陰口、次の日は友人の不幸が来る。次には天気のこと、その次には何かこわれた物や失《な》くした物のこと、その次には良心と背骨とから非難を受ける快楽のこと、あるいはまた世事の推移。加うるに内心の苦悶。かくして続いてゆく。一つの暗雲が晴るれば、また他の暗雲が生じてくる。百日のうちに一日とて、朗らかな喜びと朗らかな太陽とは得難い。しかもそれでいて汝は、少数の幸福なる人々のひとりである。他の人々は常に、深くよどんでる暗夜におおわれている。
深い考えを有する者らは、幸福なる者及び不幸なる者という言葉を余り使わない。この世においては、明らかに他の世界の入り口たるこの世においては、幸福なる者は存しない。
人間の真の区別はこうである、光明ある者と暗黒なる者と。
暗黒なる者の数を減じ光明ある者の数を増すこと、それがすなわち目的である。教育! 学問! と我々が叫ぶゆえんはそこにある。文字を学ぶは火を点ずることである。習得する各文字は光を放つ。
しかもなお、光明を説くは必ずしも喜悦を説くこととはならない。光明のうちにも苦しみがあり、また過度の光明は燃え上がる。炎は翼の敵である。翔《かけ》りつつ燃えること、そこに天才の不可思議がある。
知る時また愛する時、人はやは
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