つの深淵《しんえん》があって、身を動かすこともできず、あるいは目がくらんで墜落しそうになり、あるいは捕縛さるるに違いないという恐怖に駆られ、考えは絶えず時計の振り子のように二つの思いの間を往来した、「落ちれば死ぬ、このままではつかまる。」
そういう苦悶《くもん》にとらえられているうち、まだまっ暗な街路に、彼は突然人影を認めた。その男はバヴェー街の方から壁に沿って忍んでき、ぶら下がったようになってるテナルディエの下の方の奥まった所に立ち止まった。するとまた第二の男が同じように注意して忍んでき、第一の男といっしょになり、次に第三の男がき、次に第四の男がきた。四人がいっしょになると、そのひとりは板塀についてる戸の※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かけがね》をはずし、板小屋のある囲いのうちに四人ともはいってしまった。そして彼らはちょうどテナルディエのま下になった。彼らは明らかに何か相談せんためにその奥まった所を選んだのである。そこは通行人の目にもつかず、また数歩先にあるフォルス監獄、潜門《くぐりもん》を番してる歩哨《ほしょう》から見られもしなかった。それからまた、歩哨は雨のため哨舎の中に閉じ込められていたことも言っておかなければならない。テナルディエは四人の男の顔を見分けることができなかったので、身の破滅を感じてる悲惨な絶望的な注意をもって彼らの言葉に耳を傾けた。
テナルディエは希望の光に似たものが目の前に現われたような気がした。それらの男は盗賊の隠語を使っていたのである([#ここから割り注]訳者注 以下の会話は隠語にてなされ、そのままの翻訳はほとんど不可能なるがゆえに、さしつかえなきかぎり普通の言葉に訳出した[#ここで割り注終わり])。
第一の男は低くしかしはっきりと言った。
「引き上げよう。ここらでどうするんだ。」
第二の男は答えた。
「土砂降《どしゃぶ》りに降ってる。おまけにいぬ[#「いぬ」に傍点]らが通りかかる。番兵も向こうに立ってる。こっちゃにいりゃあつかまるばかりだ。」
そのここら[#「ここら」に傍点]とこっちゃ[#「こっちゃ」に傍点]という二つの言葉は、どちらもここという意味で、第一のは市門近くで言われてるものであり、第二のはタンプル付近で言われてるものであって、テナルディエにとってはまさしく一条の光明だった。ここら[#「ここら」に傍点]という言葉で彼は、場末の浮浪人であるブリュジョンを見て取り、こっちゃという言葉で彼は、種々な仕事のうちでもことにタンプルの古物商をしてたことのあるバベを見て取った。
大世紀時代の古い隠語は、もうタンプルでしか使われていなくて、バベはそれを純粋に話し得るただひとりだった。こっちゃ[#「こっちゃ」に傍点]という言葉がなかったら、テナルディエも彼を見て取り得なかったろう、なぜなら彼はすっかりその声を変えていたから。
そのうちに第三の男が口を入れた。
「だが何も急ぐことはねえ。少し待ってみよう。あいつ俺《おれ》たちの手を借りてえのかも知れんからな。」
これは普通の言葉使いであって、テナルディエにはそれがモンパルナスだとわかった。モンパルナスはあらゆる隠語に通じながらそれを少しも使わないことを、自ら上品だとしていた。
第四の男は黙っていたが、その広い肩幅でだれだか明らかだった。テナルディエは惑わなかった。それはグールメルだった。
ブリュジョンは勢い込んでしかしなお低い声で答え返した。
「何を言うんだ。宿屋の亭主が逃げ出せるもんか。あいつはまだ新参だ。シャツを裂き敷き布を破って綱を作り、戸に穴をあけ、合い札を作り、合い鍵《かぎ》を作り、鉄枷《てつかせ》を切り、外に綱を下げ、身を隠し、様子を変えるなんか、よほどの腕達者でなけりゃできねえ。あの老耄《おいぼれ》にできるもんか、何にも知らねえからな。」
それにまたバベが次のように言い添えた。それはやはり昔プーライエやカルトゥーシュなどの凶賊が使っていた古典的な賢明な隠語であった。ブリュジョンが使ってる無謀な新しい気取った危険な隠語にそれを対照すると、ちょうどアンドレ・シェニエの言葉にラシーヌの言葉を対照するようなものだった。
「あの宿屋の亭主め、仕事中に押さえられたのかも知れねえ。よほど腕達者でなけりゃだめだが、奴《やつ》はまだ見習いだからな。回し者かぐるの奴《やっこ》さんに、一杯くわせられたのかも知れねえ。そら、モンパルナス、監獄の中であのとおり騒いでるのが聞こえるじゃねえか。あの蝋燭《ろうそく》の光を見ろ。またつかまったんだ。なに二十年延びるだけだ。俺《おれ》は何も恐がるわけじゃねえし、臆病風《おくびょうかぜ》に誘われたわけでもねえが、こうなっちゃもう仕方がねえ、うっかりするとこちらまで穴にはまるだけだ。いきりたつなよ。俺たちといっしょにこい。うまい酒《やつ》を一本いっしょにやろうじゃねえか。」
「仲間が困ってるのをすてちゃおけねえ。」とモンパルナスはつぶやいた。
「なあに、奴《やつ》は確かにつかまったんだ。」とブリュジョンは言った。「今となっちゃあ、宿屋の亭主なんか一文の値打ちもねえ。もう仕方がねえや。さあ行こう。今にもいぬ[#「いぬ」に傍点]にやられそうな気がしてならねえ。」
モンパルナスももうしいて逆らいはしなかった。事実を言えば、互いに見捨てないという盗賊仲間の義理から、四人の者はテナルディエがどこかの壁の上に出て来るだろうと思って、危険もかまわずに、フォルス監獄のまわりを終夜うろついていたのである。しかし夜はあまり好都合になりすぎてまっくらであり、驟雨《しゅうう》は人も通れないくらいに降りしきり、身体は冷え、着物はずぶぬれになり、靴《くつ》には水がはいり、監獄の中には不安な物音が起こってき、時間はすぎ、巡邏《じゅんら》には出会い、望みはなくなり、恐怖は襲ってきて、ついに退却のやむなきに至った。テナルディエの婿と言ってもまあさしつかえないモンパルナスでさえ、もう思い切った。そして彼らは今や立ち去ろうとした。板筏《いたいかだ》にのってるメデューズ号の難破者らが、遠くに現われてきた船がまた水平線に没し去るのを見るような心地を、テナルディエは壁の上にあえぎながら感じた。
彼はあえて声をかけるわけにはいかなかった。もし呼び声でも一つ他に聞かれたらそれで万事終わりだった。その時、ある考えが、最後の一策が、一つの光明が、彼に浮かんだ。彼はポケットの中から、新館の煙筒から取ってきたブリュジョンの綱の切れを引き出して、それを板塀《いたべい》の囲いの中に投げおろした。
その綱は四人の足下に落ちた。
「綱!」とバベは言った。
「俺《おれ》のだ!」とブリュジョンは言った。
「宿屋の亭主に違いねえ。」とモンパルナスは言った。
彼らは目をあげた。テナルディエは頭を少し差し出した。
「早く!」とモンパルナスは言った、「ブリュジョン、お前は綱のも一方を持ってるか。」
「うむ。」
「いっしょにつぎ合わして、奴《やつ》に投げてやろう。壁にかけたら、おりられるくらいにはなるだろう。」
テナルディエは危険をかまわず口をきいた。
「俺は凍えてる。」
「あたためてやるよ。」
「もう動けねえ。」
「すべりおりろ、受け留めてやるから。」
「手がしびれてる。」
「綱を壁に結びつけるだけだ。」
「できねえ。」
「じゃあ俺《おれ》たちがだれか上ってゆかなけりゃならねえ。」とモンパルナスは言った。
「四階の高さだぞ。」とブリュジョンが言った。
昔板小屋の中でたくストーブの用をなしていた古い石膏《せっこう》の管が壁についていて、テナルディエの姿が見えるあたりまで上っていた。その管は当時既にはなはだしく亀裂《きれつ》や割れ目がはいっていて、その後くずれ落ちてしまったが、今日でもなお跡が見えている。それはごく狭い管だった。
「あれから上れるだろう。」とモンパルナスは言った。
「あの管から?」とバベは叫んだ。「大人《おとな》じゃだめだ、小僧でなけりゃあ。」
「そうだ、子供《がき》でなけりゃあ。」とブリュジョンも言った。
「そんな小僧っ児がめっかるもんか。」とグールメルは言った。
「待て、」とモンパルナスは言った、「いいことがある。」
彼は静かに板塀《いたべい》の戸を少し開いて、街路にはだれもいないのを見定め、用心してぬけ出し、後ろに戸を引きしめ、バスティーユの方へ駆けて行った。
七、八分過ぎた。テナルディエにとっては八千世紀がほどにも思われた。バベとブリュジョンとグールメルとは口もきかなかった。がついに戸はまた開かれて、ガヴローシュを連れたモンパルナスが息を切らしながら現われた。雨のために街路にはやはり人影もなかった。
少年ガヴローシュは囲いの中にはいってき、平気で盗賊らの顔をながめた。水は髪の毛からしたたっていた。グールメルが彼に言葉をかけた。
「小僧、貴様は一人前か。」
ガヴローシュは肩をそびやかして答えた。
「俺《おれ》のような子供《がき》は一人前だが、お前たちのような大人《おとな》はまだ赤児《ねんねえ》だ。」
「こいつ、よく舌が回りやがる。」とバベは叫んだ。
「パリーの子供《がき》は藁人形《わらにんぎょう》じゃねえ。」とブリュジョンは言葉を添えた。
「何の用なんだい。」とガヴローシュは言った。
モンパルナスが答えた。
「あの管から上るんだ。」
「この綱を持って。」とバベが言った。
「そしてそれを結びつけるんだ。」とブリュジョンがあとをついだ。
「壁の上にな。」とバベがまた言った。
「あの窓の横木にだ。」とブリュジョンが言い添えた。
「それから?」とガヴローシュは言った。
「それだけだ。」とグールメルが言った。
浮浪少年は綱と管と壁と窓とを見調べ、そして軽蔑するような何とも言えぬ音を脣《くちびる》から出した。その意味はこうだった。
「それだけか!」
「上に人がいる、それをお前は救うんだ。」とモンパルナスは言った。
「やるか?」とブリュジョンが言った。
「なーんだい!」と少年は、そんな問いをかける奴《やつ》があるかとでもいうように答え返した。そして靴《くつ》をぬいだ。
グールメルはガヴローシュの片腕をつかんで、彼を板小屋の屋根にのせた。虫食ったその屋根板は子供の重みにしなった。それからグールメルは、モンパルナスのいない間にブリュジョンがつなぎ合わせた綱を彼に渡した。浮浪少年は管の方へ進んだ。ちょうど屋根に接して大きな割れ目が一つあって、それから中にはいるのは容易だった。そこから彼が上って行こうとした時、テナルディエは救済と生命とが近づくのを見て、壁の端からのぞき出した。彼の汗にまみれた額、青ざめた頬骨《ほおぼね》、猛悪な鋭い鼻、逆立った灰色の髭《ひげ》、などが暁の初光にほの白く浮き出して、ガヴローシュはそれがだれであるかを見て取った。
「やあ、」と彼は言った、「親父《おやじ》だな。……なにかまうこたあねえ。」
そして綱を口にくわえ、思い切って上り始めた。
彼は廃屋の頂上に上りつき、その古い壁にまたがり、窓の一番上の横木に綱をしっかりと結びつけた。
それから間もなく、テナルディエは街路に出ていた。
街路の舗石《しきいし》に足を触るるや、危険の外に脱したのを感ずるや、彼はもう疲れても凍えても震えてもいなかった。ようやく脱《のが》れてきた恐ろしいことどもは煙のように消えてしまって、異常な獰猛《どうもう》な知力がよみがえり、自由にすっくと立ち上がって前に進もうとしていた。そして彼が発した最初の言葉はこうだった。
「ところで何奴《どいつ》を食ってやろうかね。」
その言葉の意味は明らかに、殺し屠《ほふ》りはぎ取るというのをいっしょにしたものであることは、説明するまでもない。食う[#「食う」に傍点]の真の意味は呑噬《どんぜい》する[#「する」に傍点]というのである。
「うまく身を隠そうじゃねえか。」とブリュジョンは言った。「手早く話をきめて、すぐに別れるとしよう。プリューメ街にうまそうな仕事が一つあったがね。寂しい通りで、
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