。極微な虫も有用である。小さなものも大であり、大なるものも小である。いっさいのものは必然のうちに平均を保っている。人の精神にとっては恐ろしい幻である。生物と無生物との間には驚くべき関係が存している。その無限なる全体のうちにあっては、太陽より油虫に至るまで、何ら軽蔑《けいべつ》し合うものはない。万物皆互いに必要を感じている。光明は自ら目ざす所あって地上のかおりを蒼空《そうくう》のうちに運んでいる。夜は星の精髄を眠れる花の上に分かち与えている。空飛ぶ鳥も皆、その足には無限なるものの糸をからましている。種子発生は、流星の出現と相通ずる所があり、卵を砕く燕《つばめ》の嘴《くちばし》と相通ずる所がある、そして蚯蚓《みみず》の発生とソクラテスの生誕とを同時に導き出す。望遠鏡の終わる所には顕微鏡が始まる。そして両者のいずれがより大なる視界を持っているか。試みに選んでもみよ。一個の黴《かび》は、一群の花である。一片の星雲は無数の星である。それと同様の、しかもいっそう不思議な混和は、精神的事物と物質的事実との間にある。要素と原則とは、互いに混交し結合し生殖し増加して、ついに物質界と精神界とを同じ光明に達せさせる。現象は常にまたおのれの上にかえり来る。宇宙の広大なる交易のうちにおいて、普遍的生命は測り知るべからざる量をもって往来し、目に見えざる神秘なる発散のうちにすべてを巻き込み、すべてを使用し、あらゆる眠りの一つの夢をも失わず、ここには一つの極微動物の種をまき、かしこには一つの星を粉砕し、顫動《せんどう》し、波動し、光を力となし思想を原素となし、伝播《でんぱ》して分割を許さず、「我」という幾何学的一点を除いてはすべてを溶解し、すべてを原子的心霊に引き戻し、すべてを神のうちに開花させ、最も高きものより最も低きものに至るまで、あらゆる活動を眩暈《げんうん》するばかりの機械的運動の暗黒中に紛糾させ、昆虫《こんちゅう》の飛翔《ひしょう》を地球の運動に結びつけ、大法の一致によってなすや否やはわからないが、蒼空《そうくう》のうちにおける彗星《すいせい》の運動を一滴の水のうちにおける滴虫の旋転に従属させる。実に精神をもって機械となしたものである。最初の機関を羽虫とし最後の車輪を獣帯星とする巨大なる連動機である。

     四 鉄門の変化

 その庭は、昔は放逸の秘密を隠すために作られたのであるが、今は姿を変えて清浄な秘密をかばうに適するようになったものらしかった。そこにはもはや、青葉棚《あおばだな》も芝生も青葉トンネルも洞穴《どうけつ》もなく、ただヴェールのような交錯したみごとな影が四方に落ちてるのみだった。パフォスの庭([#ここから割り注]訳者注 恋の神ヴィーナスの社の庭[#ここで割り注終わり])はエデンの園となったのである。言い知れぬ一種の悔悟がその隠れ場所を清めたのである。その花売り娘も今は人の魂にその花をささげていた。昔は放縦だったその媚《こび》を売る庭も、今は処女性と貞節とのうちに返っていた。ひとりの法院長とひとりの園丁、ラモアニョンのあとを継いだと信じてるひとりの好人物とル・ノートルのあとを継いだと信じてるもひとりの好人物とが([#ここから割り注]訳者注 前者は最初のパリー法院長で有徳の法官、後者は有名なる園囿設計家――法院長と園丁とが[#ここで割り注終わり])、その庭をゆがめ裁ち切り皺《しわ》をつけ飾り立てて情事に適するように仕立て上げていたが、自然はそれを再び取り返し、たくさんの影を作って、愛に適するように整えたのである。
 そしてまたその寂しい庭のうちには、すっかり用意の整ってる一つの心があった。今はただ愛が現われるのを待つばかりだった。そこには、緑葉と草と苔《こけ》と小鳥のため息とやさしい影と揺らめく枝とから成ってる一つの殿堂があり、温和と信仰と誠と希望と憧憬《どうけい》と幻とから成ってる一つの魂があった。
 コゼットはまだほとんど子供のままで修道院から出てきた。彼女は十四歳をわずか越したばかりで、まだ「いたずら盛り」の時期にあった。既に言ったとおり、彼女は目を除いてはきれいというよりむしろ醜いかとさえ思われた。けれども何ら下卑た顔立ちを持っていたのではなく、ただ不器用でやせ形で内気で同時に大胆であるばかりだった。要するに大きな小娘に過ぎなかった。
 彼女の教育は終わっていた。すなわち宗教を教わり、特に祈祷《きとう》の心を教わり、次に修道院でいわゆる「歴史」と呼ばれる地理と文法と分詞法とフランス諸王のことと多少の音楽とちょっとした写生など種々のことを教わっていた。しかし彼女はその他をいっさい知らなかった。それは一つの美点であるがまた一つの危険でもある。年若い娘の魂は薄暗がりのままにすてておくべきものではない。やがては、暗室の中におけるがごとくあまりに唐突急激な蜃気楼《しんきろう》がそこに作られるであろうから。娘の魂は現実のきびしい直射の光よりもむしろその反映によって、静かに注意深く照らさなければならない。有用なそれとなき謹厳な微光こそ、子供心の恐怖を散らし堕落を防ぐものである。いかにしてまた何によってその微光を作るべきかを知っているものは、ただ母の本能あるのみである、処女の記憶と婦人としての経験とを合わせ有する驚くべき直覚あるのみである。この本能の代わりをなし得るものは何もない。年若い娘の魂を教養するには、世のすべての修道女らを集めてもひとりの母親には及ばない。
 コゼットは母を持たなかった。彼女はただ多くの複数の母([#ここから割り注]教母ら[#ここで割り注終わり])を有するのみだった。
 ジャン・ヴァルジャンに至っては、あらゆる柔和と配慮とを持ってはいたが、要するにまったく何事をも知らない一老人に過ぎなかった。
 しかるにかかる教育の仕事、女子を世に出す準備をするこの重大な仕事には、無邪気と呼ばるる大なる無知と戦わんためにいかに多くの知識が必要であることか!
 修道院ほど若き娘を熱情に仕立てるものはない。修道院は考えを不可知なるものへ向けさせる。おのれ自身の上にかがんでいる心は、外に流れ出すことを得ないでおのれのうちに溝《みぞ》を掘り、外にひろがることを得ないでおのれのうちを深く掘る。かくして生ずるものは、幻、仮定、推測、空想のローマンス、楽しい冒険、奇怪な想像、心の奥の暗闇《くらやみ》のうちに建てられる殿堂、鉄の扉《とびら》が開けてはいれるようになると直ちに熱情が宿る暗い秘密の住居。修道院は一つの抑圧であって、人の心に打ちかたんためには一生連続していなければならない。
 修道院を出たコゼットにとっては、プリューメ街の家ほど楽しいまた危険なものはなかった。寂寥《せきりょう》は続きながら加うるに自由が始ったのである。庭は閉ざされていたが、自然は軽快で豊かで放逸で香気を発していた。修道院と同じ夢想にふけりながら、しかも若い男子の姿がのぞき見られた。同じく鉄門がついてはいたが、しかしそれは街路に向かって開いていた。
 けれども、なお繰り返して言うが、そこにきた時彼女はまだ子供にすぎなかった。ジャン・ヴァルジャンはその荒れはてた庭を彼女の手にゆだねた。「好きなようにするがいい」と彼は言った。それはコゼットを喜ばした。彼女はそこで、叢《くさむら》をかき回し石を起こし「獣」をさがし、夢想しながら遊び回った。足下に草の間に見いださるる昆虫《こんちゅう》を見てはその庭を愛し、頭の上に木の枝の間に見らるる星をながめてその庭を愛した。
 それからまた彼女は、自分の父すなわちジャン・ヴァルジャンを心から愛し、清い孝心をもって愛し、ついにその老人を最も好きな喜ばしい友としていた。読者の記憶するとおりマドレーヌ氏は多く書物を読んでいたが、ジャン・ヴァルジャンとなってもその習慣をつづけていた。それで彼は話がよくできるようになった。彼は自ら進んで啓発した謙譲な真実な知力の人知れぬ富と雄弁とを持っていた。彼にはちょうどその温良さを調味するだけの森厳さが残っていた。彼はきびしい精神であり穏和な心であった。リュクサンブールの園で対話中、彼は自ら読んだものや苦しんだもののうちから知識をくんできて、あらゆることに長い説明を与えてやった。そして彼の話を聞きながら、コゼットの目はぼんやりとあたりをさ迷っていた。
 自然のままの庭でコゼットの目には十分であったように、その単純な老人で彼女の頭には十分だった。蝶《ちょう》のあとを追い回して満足した時、彼女は息を切らしながら彼のそばにやってきて言った。「ああほんとによく駆けたこと!」すると彼は彼女の額に脣《くちびる》をつけてやった。
 コゼットはその老人を敬愛していた。そしていつもその跡を追った。ジャン・ヴァルジャンがいさえすればどこでも楽しかった。ジャン・ヴァルジャンは母屋《おもや》にも表庭にもいなかったので、彼女には、花の咲き乱れた園よりも石の舗《し》いてある後ろの中庭の方が好ましく、綴紐《とじひも》のついた肱掛《ひじか》け椅子《いす》が並び帷《とばり》がかかってる大きな客間よりも藁椅子《わらいす》をそなえた小さな小屋の方が好ましかった。ジャン・ヴァルジャンは時とすると、うるさくつきまとわれる幸福にほほえみながら彼女に言うこともあった。「まあ自分の家《うち》の方へおいで。そして私を少しひとりでいさしておくれ。」
 娘から父親に向けて言う時にはいかにも優雅に見えるかわいいやさしい小言《こごと》を、彼女はよく彼に言った。
「お父様、私あなたのお部屋《へや》では大変寒うございますわ。なぜここに絨毯《じゅうたん》を敷いたりストーブを据えたりなさらないの。」
「でもお前、私よりずっとすぐれた人で身を置く屋根も持たない者がたくさんあるんだからね。」
「ではどうして私の所には、火があったり何でも入用なものがあったりしますの。」
「それはお前が女で子供だからだよ。」
「まあ、それでは男の人は寒くして不自由していなければなりませんの。」
「ある人はだよ。」
「よござんすわ、私しょっちゅうここにきていて火をたかなければならないようにしてあげますから。」
 それからまたこういうことも彼女は言った。
「お父様、どうしてあなたはそんないやなパンをお食べなさるの。」
「ただ食べていたいからだよ。」
「ではあなたがお食べなさるなら、私もそれを食べますわ。」
 すると、コゼットが黒パンを食べないようにと、ジャン・ヴァルジャンも白いパンを食した。
 コゼットは小さい時のことはただぼんやりとしか覚えていなかった。彼女は朝と晩に、顔も知らない母のためにお祈りをした。テナルディエ夫婦のことは、夢に見た二つの恐ろしい顔のようにして心の中に残っていた。「ある日、晩に、」森の中へ水をくみに行ったことがあるのを、彼女は覚えていた。パリーからごく遠い所だったと思っていた。初めはひどい所に住んでいたが、ジャン・ヴァルジャンがきて自分をそこから救い出してくれたように考えられた。小さい時のことは、まわりに百足虫《むかで》や蜘蛛《くも》や蛇《へび》ばかりがいた時代のように思われた。また自分はジャン・ヴァルジャンの娘でありジャン・ヴァルジャンは自分の父であるということについて、ごくはっきりした観念は持っていなかったので、夜眠る前にいろいろ夢想していると、母の魂がその老人のうちにはいってきて自分のそばにとどまってくれるような気がした。
 ジャン・ヴァルジャンがすわっている時、彼女はよく頬《ほお》をその白い髪に押しあてて、ひそかに一滴の涙を流して自ら言った、「この人が私のお母様かも知れない!」
 こういうことを言うのはおそらく異様かも知れないが、コゼットは修道院で育てられたまったく無知な娘であったから、また母性なるものは処女には絶対に知り得べからざるものであるから、ついに彼女は自分はごく少しの母しか持っていないと考えるようになった。そういう少しの母を、彼女は名前さえ知らなかったのである。それをジャン・ヴァルジャンに尋ねてみることもあったが、ジャン・ヴァルジャンはいつも黙って
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