の名前は知らないが自分の心を知っていたこと、そして今いかに秘密な場所に彼女がいようとも、おそらくなお自分を愛していてくれるだろうということ。自分が彼女を思っているように彼女も自分を思っていないとはだれが言えよう。時として、すべて愛する者の心に起こる説明し難いあの瞬間に、悲しみの種しかないにかかわらず、ひそかに喜悦の戦慄《せんりつ》を身に感じて、彼は自ら言った、「これは彼女の思いが私に通じるのだ。」それから彼はつけ加えた、「私の思いもまたおそらく向こうに通じているだろう。」
 そういう幻を彼は自らすぐあとで打ち消しはしたが、それでもついにはそのために、時としては希望に似た一種の光明が心のうちに射《さ》してきた。折にふれて、またことに夢想家らを最も物悲しい思いに沈ませる夕方など、恋のため頭に満ちてくる夢想のうちの最も純潔で人間離れのした理想的なものを、彼は特別な手帳のうちに書き止めた。それを彼は自ら、「彼女に手紙を書く」と称していた。
 しかし、彼の理性が混乱していたと思ってはいけない。実際はそれに反対だった。彼は働く能力を失い、一定の目的に向かって確乎《かっこ》たる歩を運ぶの能力を失って
前へ 次へ
全722ページ中91ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング