サの言葉もよくは聞こえなかったのである。
 彼は立ち上がって、窓から扉《とびら》へ扉から窓へと歩き始めて、ますます心が落ち着いてきた。
 かく心が落ち着くとともに、唯一の心掛かりであるコゼットのことがまた頭に浮かんできた。彼は別に彼女の頭痛のことは心配しなかった。それはちょっとした神経の障害であり、若い娘にはありがちな憂鬱《ゆううつ》であり、一時の曇りであって、一日二日で治《なお》ってしまうだろう。で、彼はただ未来のことを、いつものように静かな気持ちで考えた。そして要するに、幸福な生活が再び続いてゆくことに何らの障害をも見いださなかった。すべてが不可能に思える時もあるが、すべてが安穏に思える時もある。ジャン・ヴァルジャンは今そういう楽観のうちにあった。かかる安穏な時間は通例難渋な時間のあとに来るものであって、あたかも夜のあとに昼が来るようなものであり、皮相な者らがいわゆる対偶と称するところの自然の根底をなしてる連続ならびに対照の法則によるものである。ジャン・ヴァルジャンはその静かな街路に逃げ込んで、しばらくの間悩まされたすべてのことから脱することができた。多くの暗黒を見たことがまたかえ
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