あたかも冬の薄暗い扉《とびら》が半ば開いたままになっていて、そこから風が吹いて来るかとも思われる。一八三二年の春は、十九世紀最初の大疫病がヨーロッパに発生した時だったが、この北風が例年にも増して荒く鋭かった。冬の扉よりももっと冷たい氷の扉が口を開いていた。墳墓の扉だった。その北風の中にはコレラの息吹《いぶき》が感ぜられた。
 気象学上から言えば、この寒風の特質は高圧の電気を少しもはばまないことだった。電光と雷鳴とを伴った驟雨《しゅうう》がその頃しばしば起こった。
 ある晩、この北風が激しく吹いて、正月がまた戻ってきたかと思われ、市民はまたマントを引っ掛けていた時、少年ガヴローシュは相変わらずぼろの下にふるえながら暢気《のんき》で、オルム・サン・ジェルヴェーの付近にある、ある理髪屋の店先に立って、我を忘れてるがようだった。どこから拾ってきたかわからないが、毛織りの女の肩掛けをして、それに顔を半分埋めていた。ちょうど蝋細工《ろうざいく》の新婦の人形があって、首筋をあらわにし橙《オレンジ》の花を頭につけ、窓ガラスの中で二つのランプの間にぐるぐる回りながら、通行人に笑顔《えがお》を見せていた。
前へ 次へ
全722ページ中264ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング