ホかす》があり、穴のあいた仕事服を着、両横に補綴《つぎ》のあたってるビロードのズボンをはき、男というよりもむしろ男に変装してる女のようなふうだった。しかしその声はどう見ても女とは思えなかった。彼はクールフェーラックに言った。
「すみませんが、マリユスさんは?」
「ここにはいない。」
「今晩帰って来るでしょうか。」
「どうだかわからない。」
そしてクールフェーラックは言い添えた。「僕は少なくとも帰らない。」
若い男は彼の顔をじっと見つめ、そして尋ねた。
「なぜですか。」
「帰らないから帰らないんだ。」
「ではどこへ行くんですか。」
「それが君に何の用があるんだ?」
「その箱を私に持たしてくれませんか。」
「僕は防寨《ぼうさい》に行くんだぜ。」
「私もあなたといっしょに行きましょう。」
「行きたければ行くがいいさ。」とクールフェーラックは答えた。「街路は人の自由だ、舗石《しきいし》は万人のものだ。」
そして彼は仲間に追っつくために走って逃げ出した。仲間といっしょになると、そのひとりに箱を持たした。それからわずか十四、五分たった後、あの若い男が実際ついてきてるのに彼は気づいた。
群集は一定の望みどおりの方へばかり行くものではない。前に説明したとおり、風のまにまに吹きやられるものである。彼らはサン・メーリーを通り越し、どうしてだか漠然《ばくぜん》とサン・ドゥニ街まできてしまった。
[#改ページ]
第十二編 コラント
一 コラント亭の歴史
今日、市場《いちば》の方からランブュトー街へはいってゆくと、右手に、モンデトゥール街と向き合った所に、一軒の籠屋《かごや》がある。その看板は、ナポレオン大帝の形をした籠で、「ナポレオンは柳の枝にて作らる[#「ナポレオンは柳の枝にて作らる」に傍点]」としるされている。そしてそれを見るパリー人も、わずか三十年前に恐ろしい光景がそこで演ぜられたとは、夢にも思わないであろう。([#ここから割り注]訳者注 本書の出版は一八六二年なることを記憶していただきたい[#ここで割り注終わり])
こここそ、以前シャンヴルリー街といった所で、昔の書き方ではシャンヴェールリー街といい、コラントという有名な居酒屋のあった所である。
サン・メーリーの防寨《ぼうさい》の影に隠れてはいるが、この場所に設けられてた防寨の名が前にちょっと出てきたことを、読者は記憶しているだろう。いまわれわれが少しく明るみに持ち出さんとするのは、既に今日深い暗闇《くらやみ》のうちに包まれているこのジャンヴルリー街の有名な防寨のことである。
叙述を簡明ならしめるために、ワーテルローについて既に用いた簡単な方法をここにも適用することを許していただきたい。サン・テュースターシュ会堂の先端の近くに、今日ランブュトー街の一端が開いてるパリーの市場町の北東の角《かど》に、当時立ち並んでいた人家の地勢を、かなり正確に頭に浮かべようとするならば、まずN字形を想像すればよい。上をサン・ドゥニ街とし下を市場町としてこのN字形を据えれば、縦の二本の足はグランド・トリュアンドリー街とシャンヴルリー街とであり、斜めの足はプティート・トリュアンドリー街となる。そして古いモンデトゥール街が、最もひどい角度で三本の足と交差していた。かくてこの四つの街路が不規則に交錯してるために、二方は市場町とサン・ドゥニ街とにはさまれ、他の二方はシーニュ街とプレーシュール街とにはさまれた、この二百メートル平方ほどの地面に、人家の小島が七つできて、どれも皆妙な形に断ち切られ、種々の大きさをし、秩序もなく並べられ、ようやく間がすいてるだけで、あたかも石工場にころがっていて狭い割れ目で別になってる石塊のようであった。
いま狭い割れ目と言ったが、実際九階もの破屋の間にはさまれて薄暗く狭くって角の多いそれらの小路は、割れ目とでも言うよりほかはないのであった。またそれらの破屋もはなはだしくいたんでいて、シャンヴルリー街やプティート・トリュアンドリー街などでは、各々の家の正面から正面へ梁《はり》を渡してささえてあった。街路は狭く溝は大きく、舗石《しきいし》はいつもじめじめしていて、両側には、窖《あなぐら》のような商店、鉄の環《わ》がはまってる大きな標石、ひどい塵芥《ごみ》の山、何百年とたったような古い大きな鉄格子《てつごうし》のついてる大門、などがあった。そしてその後、ランブュトー街ができたのですべてこわされてしまったものである。
モンデトゥール街([#ここから割り注]うねうね街[#ここで割り注終わり])という名前は、曲がりくねったそれらの小路をみごとに言い現わしたものである。それから少し先の方に行くと、モンデトゥール街に落ち合ってるピルーエット街[#「ピルーエット街」に傍
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