ニころでむだなことだった。ジルノルマン氏は爪《つめ》の先まで祖父ではあったが、一点も大伯父たるところはなかった。
 実のところ、彼は才智をそなえていてふたりを比較していたので、テオデュールがいることはますますマリユスを惜しむの念を強めるばかりだった。
 ある晩、六月の四日であったが、ジルノルマン老人はなお暖炉に盛んな火をたかして、娘を隣室に退かせ縫い物をさしていた。そして彼はひとりで牧歌的な飾り立てをした室《へや》に残っていて、薪台の上に足を置き、コロマンデルの広い九枚折り屏風《びょうぶ》に半ば囲まれ、緑色の笠《かさ》の下に二本の蝋燭《ろうそく》が燃えているテーブルに肱《ひじ》をつき、毛氈《もうせん》の肱掛け椅子《いす》に身を埋め、手に一冊の書物を持っていた。しかし別にそれを読んでるのでもなかった。いつものとおりアンクロアイヤブル([#ここから割り注]執政内閣時代の軽薄才子[#ここで割り注終わり])式の服装をして、ちょうどガラー([#ここから割り注]訳者注 大革命から帝政時代の政治家[#ここで割り注終わり])の古い肖像を見るがようであった。そんな服装で往来に出ようものなら人だかりがするかも知れなかったが、娘はいつも彼が出かける時には司教のような広い綿入れの絹外套《きぬがいとう》を着せてやったので、人の目につかなかったのである。家にいる時には、起き上がった時と寝る時とのほかは決して居間着をつけなかった。「あれを着ると老人らしく見える[#「あれを着ると老人らしく見える」に傍点]、」と彼は言っていた。
 ジルノルマン老人はマリユスのことを考えると、かわいくなったり苦々《にがにが》しくなったりしたが、普通は苦々しさの方が強かった。そのいら立った愛情は、しまいには煮えくり返って、憤怒に終わるのが常であった。そして後には、あきらめをつけて心を痛めるものをじっと受け入れようとするほどになっていた。彼は自ら説き聞かしていた、もうマリユスが帰って来るはずはない、帰って来るものならとくに帰ってるはずである、もうあきらめなければならないと。そして、もう万事終わりだ、自分は「あの男」に再び会わないで死んでゆくのだ、という考えになれようとつとめていた。しかし彼の天性はそれに反抗した。年老いた親身《しんみ》の心はそれに同意することができなかった。それでも彼は口癖になってる悲しい言葉をくり返した、「なに、帰ってきはすまい!」彼はそのはげた頭を胸にたれ、痛ましい激昂《げっこう》した目つきを炉の灰の上にぼんやり定めていた。
 そういう夢想の最中に、老僕のバスクがはいってきて、そして尋ねた。
「旦那様《だんなさま》、マリユス様をお通し申してよろしゅうございましょうか。」
 老人はまっさおになって身を起こした。電流のために起《た》たされた死骸《しがい》のようだった。全身の血は心臓に流れ込んでしまった。彼は口ごもった。
「何のマリユス様だ?」
「存じません。」とバスクは主人の様子に驚き恐れて答えた。「私がお会いしたのではございません。ニコレットが私の所へきて申しました、若い方がみえています、マリユス様と申し上げて下さいと。」
 ジルノルマン老人は低い声でつぶやいた。
「お通し。」
 そして彼は同じ態度のままで、頭を振り動かしながら扉《とびら》を見つめていた。扉は開いた。ひとりの青年がはいってきた。マリユスであった。
 マリユスははいれと言われるのを待つかのように、扉の所に立ち止まった。
 彼の見すぼらしい服装は、蝋燭《ろうそく》の笠《かさ》が投げてる影の中でよく見えなかった。ただその落ち着いたまじめなしかも妙に悲しげな顔だけがはっきり見えていた。
 ジルノルマン老人は驚きと喜びとでぼんやりして、あたかも幽霊の前に出たように、ただぽーっとした光を見るきりで、しばらく身動きもできなかった。彼は気を失わんばかりであった。彼は眩惑《げんわく》しながらマリユスを見た。確かに彼だった、確かにマリユスだった。
 ついにきた、四年の後に! 彼は言わば一目でマリユスの全部を見て取った。マリユスは美しく、気高く、りっぱで、大きくなり、一人前の男になり、申し分のない態度になり、みごとな様子になっていた。彼は両腕をひろげ、その名を呼び、飛びつきたいほどだった。彼の心は喜びに解け、愛のこもった言葉は胸いっぱいになってあふれかけた。ついにその愛情はわき上がって、脣《くちびる》まで上ってきた。しかし常に反対の道をゆく奥底の性質のために、脣からは荒々しい言葉が出た。彼はだしぬけに言った。
「何しにここへやってきた?」
 マリユスは当惑して答えた。
「あの……。」
 ジルノルマン氏は自分の腕にマリユスが身を投じてくるのを欲したであろう。彼はマリユスにもまた自分自身にも不満だった。自分は粗暴でありマリ
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