スは冷淡であることを彼は感じた。内心はいかにもやさしく悲しいのに外部の態度は冷酷でしかあり得ないことを感ずるのは、老人にとってたえ難いいら立ちの種だった。苦々《にがにが》しい気持ちが彼に戻ってきた。彼は気むずかしい調子でマリユスの言葉をさえぎった。
「では何のためにきたんだ?」
その「では」という言葉は、わしを抱擁しにきたのでないなら[#「わしを抱擁しにきたのでないなら」に傍点]という意味だった。マリユスは青ざめて大理石のような顔をしてる祖父をながめた。
「あの……。」
老人は酷《きび》しい声で言った。
「わしの許しを願いにきたのか。自分の悪かったことがわかったのか。」
彼はマリユスを正道に引き戻してやったのだと思っていた、「子供」が我《が》を折りかけてるのだと思っていた。マリユスは身を震わした。祖父が求めているのは父を捨てることであった。彼は目を伏せて答えた。
「いいえ。」
「それでは何の用だ?」と老人は憤怒に満ちた悲痛の情を以って急《せ》き込んで叫んだ。
マリユスは両手を握り合わせ、一歩進み出て、弱い震え声で言った。
「あの、少しお慈悲を。」
その言葉はジルノルマン氏の心を刺激した。も少し早く言われたら、彼は心を和らげたであろう。しかしもう遅かった。祖父は立ち上がった。彼は両手で杖にすがり、脣《くちびる》はまっ白になり、額は筋立っていたが、その高い身体は首垂《うなだ》れてるマリユスの上にそびえた。
「お前に慈悲をかける! 九十一歳の老人に向かって若い者が慈悲を求めるというのか! お前は世間にはいっており、わしは世間から出ている。お前は芝居や舞踏会や珈琲《コーヒー》店や撞球《たまつき》場に出入りし、気がきいており、女の気に入り、男振りがいい。わしは夏の最中でも火にかじりついてる。お前は富の中での富である若さを持ってる。わしは老人の貧しさを、衰弱と孤独とを持ってる。お前は三十二枚の歯と、いい胃袋と、はっきりした目と、力と、食欲と、健康と、元気と、森のような黒い髪とを持ってる。わしはもう白髪《しらが》も持たず、歯も足の力も記憶さえも失ってる、シャルロ街とショーム街とサン・クロード街の三つの名前さえ絶えずまちがえてる、それほどになってるのだ。お前は光り輝く未来を前途に持ってる。わしはもう光が少しも見えなくなりかけてる、それほど暗闇《くらやみ》の中にふみこんでるのだ。お前は女のあとを追っかけてる、そんなことは言わなくてもわかる。わしは世の中のだれからも顧みられない。それだのにお前はわしに慈悲を願うのか。ばかな! モリエールだってそんなことは思いついてやしない。そんなことを言って裁判所を笑わせようというんなら、弁護士諸君、私は心からお祝いするよ。おかしな奴《やつ》らだ。」
そして百歳近くの老人は、怒ったいかめしい声で言い続けた。
「いったい、わしにどうしろと言うのだ?」
「私があなたの前に出ますのは、お心に逆らうこととは存じております。」とマリユスは言った。「しかし私はただ一つお願いしたいことがあって参りました。それがすめばすぐに出て行きます。」
「お前はばかだ!」と老人は言った。「だれが出て行けと言った?」
その一言は、「まあわしの許しを[#「まあわしの許しを」に傍点]乞《こ》え[#「え」に傍点]、わしの首に飛びついてこい[#「わしの首に飛びついてこい」に傍点]!」という心の底のやさしい言葉を言い換えたものであった。ジルノルマン氏はマリユスが間もなく自分のもとを去ってゆくに違いないと感じた。喜んで迎えなかったために彼を反抗さし、酷《きび》しい態度をしたため彼を追い返すことになったと感じた。老人は自らはっきりそう思った。そのために彼の悲しみはますます大きくなった。その悲しみがすぐに憤怒に変わったので、彼の厳酷さはまた増してきた。彼はマリユスにその心持ちを了解してもらいたかったであろう。しかしマリユスは了解しなかった。そのことは老人を激昂《げっこう》さした。彼は言った。
「これ、お前はこのわしを、お前の祖父を捨てて行った。お前は家を出てどこかへ行ってしまった。お前は伯母《おば》を心配さした。そして何をしたんだ。言わずとわかってる。その方がいいからさ。放埒《ほうらつ》な生活をし、遊び歩き、勝手な時間に帰ってき、おもしろいことをし、働いた様子も見せず、払ってくれとも言わないで借金をし、よその家の窓ガラスをこわし、乱暴なまねをし、そして四年ぶりにわしの所へ戻ってきたんだ。わしに言いたいのはそれだけのことだろう!」
孫の愛情を得るためのその荒々しいやり方は、かえってただマリユスを黙らせるだけだった。ジルノルマン氏は彼独特の妙に傲然《ごうぜん》たる腕組みをして、苦々《にがにが》しくマリユスに言いかけた。
「こんな話はやめだ。お前
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