ミとり言った。
「少しも習慣を変えない人だし、晩にしかだれにも会ったことのない人だから。」
「だれのことを言ってるの。」とコゼットは尋ねた。
「私が? 何も言いはしない。」
「では何を望んでるの。」
「明後日《あさって》のことにしよう。」
「どうしても?」
「ええ、コゼット。」
 彼女は彼の頭を両手に抱き、同じ高さになるために爪先《つまさき》で伸び上がって、彼の目の中にその望みを読み取ろうとした。
 マリユスは言った。
「今思い出したが、あなたは私の住所を知ってなけりゃいけない。何か起こらないとも限らないから。私はクールフェーラックという友人の所に住んでるんだよ。ヴェールリー街十六番地。」
 彼はポケットの中を探って、ナイフを取り出し、その刃で壁の漆喰《しっくい》の上に彫りつけた。
 ヴェールリー街十六[#「ヴェールリー街十六」に傍点]。
 そのうちにコゼットは、また彼の目の中をのぞきはじめた。
「あなたの考えを言ってちょうだいよ。マリユス、あなたは何か考えてるんだわ。それを私に言ってちょうだい。ねえ、それを聞かして私にうれしい一夜を過ごさして下さらない?」
「私が考えてるのはこうだよ、神様も私たちを引き離そうとはされないに違いないと。明後日私を待ってるんだよ。」
「それまで私はどうしようかしら。」とコゼットは言った。「あなたは外に出て、方々行ったりきたりするんでしょう。男っていいものね。私は一人でじっとしてなけりゃならないもの。ああどんなに悲しいでしょう。明日《あす》の晩何をするつもりなの、言ってちょうだいな。」
「一つやってみることがあるんだよ。」
「では私は、あなたが成功するように、それまで、神様にお祈りをし、あなたのことを思っていましょう。もう尋ねないわ、あなたが言いたくないのなら。あなたは私の主人ですもの。私あなたの好きな、それいつかの晩あなたが雨戸の外に聞きにいらした、あのウーリヤント[#「ウーリヤント」に傍点]の曲を歌って、明日の晩は過ごすことにするわ。でも明後日《あさって》は早くからきてちょうだい。日が暮れると待ってるわ。ちょうど九時にね、よくって、ああ、ほんとにいやね、日が長いのは。ねえ、九時が打つと私は庭に出てるわ。」
「その時には私も来る。」
 そして言わず語らずに、ふたりとも同じ考えに動かされ、ふたりの恋人の心を絶えず通わせる電気の流れに引かされ、悲しみの中にあっても恍惚《こうこつ》として、彼らは互いに抱き合い、知らぬまに脣《くちびる》を合わし、喜びにあふれて涙に満ちてる目を上げては、空の星をながめた。
 マリユスが外に出た時、街路には人影もなかった。それはちょうど、エポニーヌが盗賊らの跡をつけて大通りまで行った時だった。
 木に頭をもたして思い沈んでいる時、マリユスの頭に一つの考えが浮かんだのだった。それも実は彼自身にさえ愚かな不可能なことだと思えるものであった。しかし彼は激しい決心を固めたのである。

     七 老いたる心と若き心との対峙《たいじ》

 ジルノルマン老人は当時、はや九十一歳になっていた。そしてやはりジルノルマン嬢とともに、フィーユ・デュ・カルヴェール街六番地の自分の古い家に住んでいた。読者の記憶するとおり彼は、まっすぐに立ちながら死を待ち、老年になっても腰も曲がらず、悲しみがあっても背もかがまないという、あの古代式な老人のひとりであった。
 けれども最近になって、「お父さんも弱ってこられた、」と彼の娘は言っていた。彼はもう女中を平手でなぐることもしなくなった。外から帰ってきて、バスクが扉《とびら》を開くのをおくらすような時、階段の平板を非常な元気で杖《つえ》でたたくこともしなくなった。七月革命も彼をようやく六カ月間奮激さしたのみだった。モニトゥール[#「モニトゥール」に傍点]新聞に「フランス上院議員ウンブロ・コンテ氏」などと書かれているのを見ても、ほとんど平気でいることができた。実際彼はまったく気力を失ってしまったのである。彼は一歩も譲らず屈しもしないという点では精神的方面でも肉体的方面でも同じであったが、しかし内心ではしだいに弱ってきたことを自ら感じていた。四年の間彼は、まったくのところしっかと足を踏みしめてマリユスを待っていた。あのばか者がいつ帰ってきて戸をたたくかも知れないと確信して待っていた。が今では気が滅入《めい》るような時には、「まだなかなかマリユスが帰ってこないとすれば……」などと自ら言うようになった。彼にたえ難かったのは、自分の死ということではなく、もう再びマリユスに会えないかも知れないという考えだった。もう再びマリユスに会えないという考えは、その時まで彼の頭には少しも浮かばなかったことである。ところが今では、そういう考えが彼に浮かび始めて、彼を慄然《りつぜん》と
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