竄竄ゥに言った。
「コゼット、あなたは行くんですか。」
 コゼットは心痛の色に満ちた美しい目を彼の方へ向け、当惑したように答えた。
「どこへ?」
「イギリスへ。あなたは行くんですか。」
「なぜそんなよそよそしい言い方をなさるの?」
「あなたが行くかどうか聞いてるんです。」
「私にどうせよとおっしゃるの。」彼女は手を組み合わして言った。
「ではあなたは行くんですか。」
「もしお父さんが行かれるなら。」
「あなたは行くんですね。」
 コゼットはマリユスの手を取り、答えをしないでそれを握りしめた。
「いいです。」とマリユスは言った。「それでは私も外の所へ行きます。」
 コゼットはその言葉の意味を、了解したというよりむしろ直覚した。彼女はまっさおになって、暗い中にその顔が白く見えた。彼女はつぶやいた。
「あなたは何を言うの。」
 マリユスは彼女をながめ、それから静かに目を空の方へ上げて答えた。
「何でもありません。」
 彼は目を下げた時、コゼットが自分の方へほほえんでるのを見た。愛する女のほほえみは暗夜に見える光明である。
「私たちはほんとにばかだこと。ねえ、私にいい考えがあってよ。」
「どんな?」
「私どもが出立したら、あなたも出立なさいな。行く先をあなたに教えてあげるわ。そして私が行く所にあなたもいらっしゃいね。」
 マリユスは今ではまったく夢想からさめた男であった。彼は再び現実に戻っていた。彼はコゼットに叫んだ。
「いっしょに出立する! 気でも違ったんじゃない? 出立するには金がいる。私には金はないんだ。イギリスへ行くって? でも私は今、あなたの知らない人だがクールフェーラックという友人から、何でも二百フランもの借りがある。それに持ってる物と言ったら、三フランの価値《ねうち》もない古帽子、胸のボタンがとれてる上衣、シャツは裂けてるし、肱《ひじ》はぬけてるし、靴《くつ》には水がはいってくる。この六週間の間私はもうそんなことは考えもしなかったし、あなたにも言わなかったけれど。コゼット、私はほんとうに貧乏なんだよ。あなたは私を見るのは夜分だけで、そして私に愛を与えてくれる。けれどもし昼間私を見たら、一スーの金でも恵んでくれるでしょうか。イギリスへ行く! 私にはその旅行券の代もない。」
 彼はそこにあった一本の木によりかかり、立ったまま、頭の上に両手を組み、木の幹に額を押しつけ、自分の皮膚をいためる木をも感ぜず、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に激しく脈打っている熱をも感ぜず、身動きもせず、倒れんばかりになって、絶望の立像かと思われるほどだった。
 彼は長い間そうしていた。あたかも深淵《しんえん》の中に永遠に立ちつくしてるがようだった。がついに彼はふり向いた。やさしい悲しい押さえつけたような小さな音が後ろに聞こえたのである。
 コゼットがすすり泣いてるのだった。
 彼女はもう二時間以上も前から、夢想してるマリユスのそばで涙を流していたのである。
 彼は彼女のそばに寄り、ひざまずき、そして静かに身を伏せて、長衣の下から出てる彼女の足先を取り、それに脣《くちびる》をつけた。
 彼女は黙ったまま彼のなすに任した。うち沈み忍従してる女神のように、女には愛の宗教を受け入れる瞬間があるものである。
「泣かないでね。」と彼は言った。
 彼女はつぶやいた。
「私はたいてい行かなければならないし、それにあなたは来ることができないとすれば!」
 彼は言った。
「私を愛してくれる?」
 彼女は涙の中から来る時最も魅惑的になる楽園の言葉を、すすり泣きながら答えた。
「心から慕ってるの。」
 彼は言葉につくし難い愛撫《あいぶ》の調子で言った。
「泣いちゃいや。ねえ、私のためにどうか泣かないでね。」
「あなたは私を愛して下すって?」と彼女は言った。
 彼は彼女の手を取った。
「コゼット、私はだれにもまだ誓いの言葉を言ったことはない。誓いの言葉は恐ろしいから。私はいつも父が自分のそばに立ってるような気がする。でも私は今一番神聖な誓いの言葉をあなたに言おう。ねえ、あなたが私のもとを去れば、私は死んでしまう。」
 彼がその言葉を発した調子のうちには、きわめて荘重な静粛な憂愁がこもっていて、コゼットは身をおののかした。悲痛な真実なものが通りかかる時に与える一種の冷気を、彼女は感じた。そしてその感動を受けて泣くのをやめた。
「あのね、」と彼は言った、「明日《あした》は私を待たないんだよ。」
「なぜ?」
「明後日《あさって》でなければこないつもりでね。」
「まあ、なぜ?」
「あとでわかるよ。」
「一日あなたに会わずに! いえそんなことできないわ。」
「あるいは一生のためになることだから、一日くらい耐《こら》えていよう。」
 そしてマリユスは、半ば口の中で
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