助けようと思ってる人もそれで破滅だ。ちょうど一時が鳴ったばかりである。待ち伏せは六時にすっかりでき上がるはずだ。それまでには五時間の余裕がある。
 なすべき道はただ一つきりなかった。
 彼はいい方の服をつけ、絹の襟巻《えりま》きを結び、帽子を取り、ちょうど苔《こけ》の上を跣足《はだし》で歩くように少しも音を立てないで出て行った。
 その上幸いにも、ジョンドレットの女房はなお続けて鉄屑《てつくず》の中をかき回していた。
 外に出ると彼は、すぐにプティー・バンキエ街の方へ行った。
 その街路の中ほどに、ある所はまたげそうな低い壁があって、向こうは荒れ地になっていた。そこを通る時分には、彼はすっかり考え込んでゆっくり足を運んでいた。そして雪のために足音もしなかった。その時突然彼は、すぐ近くに人の話し声を聞いた。ふり返ってみると、街路はひっそりして、人影もなく、まっ昼間であった。しかもはっきり人声が聞こえていた。
 彼はふと思いついてそばの壁の上から向こうをのぞいてみた。
 果たしてそこには、ふたりの男が壁に背を向け、雪の上にかがんで、低く語り合っていた。
 ふたりとも彼の見知らぬ顔だった。ひとりはだぶだぶの上衣をつけた髯《ひげ》のある男で、もひとりはぼろをまとった髪の長い男だった。髯のある方は丸いギリシャ帽をかぶっていたが、もひとりは何もかぶらず、髪の上に雪が積っていた。
 ふたりの上に頭をつき出して、マリユスはその言葉をよく聞き取ることができた。
 長髪の男は相手を肱《ひじ》でつっ突いて言った。
「パトロン・ミネットの力を借りれば、しくじることはねえ。」
「そうかな。」と髯の男は言った。
 長髪の方は続けた。
「ひとりに五百弾でいいだろう。もしどじっても、五年か六年、まあ長くて十年だ。」
 相手はやや躊躇《ちゅうちょ》して、ギリシャ帽の下を指でかきながら答えた。
「そっちは実際だからな。そんな目にあっちゃあ。」
「大丈夫しくじりっこはねえ。」と長髪の方は言った。「爺《と》っつぁんの小馬車に馬をつけとくんだから。」
 それから彼らはゲイテ座で前日見た芝居のことを話し初めた。
 マリユスは歩き出した。
 不思議にも壁の後ろに隠れ雪の中にうずくまってるそれらふたりの男の曖昧《あいまい》な話は、何だかジョンドレットの恐ろしい計画に関係があるらしく、マリユスには思われてならなかった。どうしてもあのこと[#「あのこと」に傍点]らしかった。
 彼はサン・マルソー郭外の方へ行って、見当たり次第の店で、警察部長の居所を尋ねた。
 ポントアーズ街十四番地というのを教えられた。
 マリユスはその方へ行った。
 パン屋の前を通った時、晩の食事はできないかも知れないと思って、二スーのパンを買い、それを食べた。
 道すがら彼は天に感謝した。彼は考えた。今朝ジョンドレットの娘に五フランやっていなかったら、自分はルブラン氏の馬車について行って、その結果何にも知らなかったに違いない、そしてジョンドレット一家の者の待ち伏せを妨ぐるものもなく、ルブラン氏はそれで破滅になり、またおそらく娘もともに破滅の淵《ふち》に陥ってしまったであろう。

     十四 警官二個の拳骨《げんこつ》を弁護士に与う

 ポントアーズ街十四番地にきて、マリユスはその二階に上がり、警察部長を尋ねた。
「部長さんはお留守です。」とひとりの小僧が言った。「ですが代理の警視はおられます。お会いになりますか。急ぎの用ですか。」
「そうです。」とマリユスは言った。
 小僧は彼を部長室に案内した。中格子《なかごうし》の後ろに、ストーブに身を寄せ、三重まわしの大きなマントの袖《そで》を両手で上げている、背の高い男がひとりそこに立っていた。四角張った顔、脣《くちびる》の薄い引き締まった口、荒々しい半白の濃い頬鬚《ほおひげ》、ふところの中まで見通すような目つき、それは透徹する目ではなくて、探索する目と言う方が適当だった。
 その男は獰猛《どうもう》さと恐ろしさとにおいてはあえてジョンドレットに劣りはしなかった。番犬も時とすると、狼《おおかみ》に劣らず出会った者に不安を与えることがある。
「何の用かね。」と彼はぞんざいな言葉でマリユスに尋ねた。
「部長さんは?」
「不在だ。私《わし》がその代理をしている。」
「ごく秘密な事件ですが。」
「話してみたまえ。」
「そしてごく急な事件です。」
「では早く話すがいい。」
 その男は平静でまた性急であって、人をこわがらせまた同時に安心させる点を持っていた。恐怖と信頼とを与えるのだった。マリユスは彼にできごとを語った。――ただ顔を知ってるばかりの人ではあるが、その人が今夜、待ち伏せに会うことになっている。――自分はマリユス・ポンメルシーという弁護士であるが、自分のいる室《へや》の隣が悪漢の巣窟《そうくつ》で、壁越しにその計画をすっかり聞き取った。――罠《わな》を張った悪漢はジョンドレットとかいう男である。――共犯者もいるらしい。たぶん場末の浮浪人どもで、なかんずくパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユという男がいる。――ジョンドレットの娘どもが見張りをするだろう。――ねらわれてる人は、その名前もわからないので、前もって知らせる方法もない。――そしてそれらのことは晩の六時に、オピタル大通りの最も寂しい所、五十・五十二番地の家で、実行されることになっている。
 その番地を聞いて、警視は顔を上げ、冷ややかに言った。
「では廊下の一番奥の室《へや》だろう。」
「そうです。」とマリユスは言った、そしてつけ加えた。「その家を御存じですか。」
 警視はちょっと黙っていたが、それから靴《くつ》の踵《かかと》をストーブの火口で暖めながら答えた。
「そうかも知れないね。」
 それから、マリユスにというよりもむしろその襟飾《えりかざ》りにでも口をきいてるように目を下げて、半ば口の中で続けて言った。
「パトロン・ミネットが多少関係してるに違いない。」
 その言葉にマリユスは驚いた。
「パトロン・ミネット、」と彼は言った、「ほんとに私はそういう言葉を耳にしました。」
 そして彼は、プティー・バンキエ街の壁の後ろで、長髪の男と髯《ひげ》の男とが雪の中で話していたことを、警視に語った。
 警視はつぶやいた。
「髪の長い男はブリュジョンに違いない。髯のある方は、ドゥミ・リヤール一名ドゥー・ミリヤールに違いない。」
 彼はまた眼瞼《まぶた》を下げて、考え込んだ。
「その爺《と》っつぁんというのも、およそ見当はついてる。ああマントを焦がしてしまった。いつもストーブに火を入れすぎるんだ。五十・五十二番地と。もとのゴルボーの持ち家だな。」
 それから彼はマリユスをながめた。
「君が見たのは、その髯《ひげ》の男と髪の長い男きりかね。」
「それとパンショーです。」
「その辺をぶらついてるお洒落《しゃれ》の小男を見なかったかね。」
「見ません。」
「では植物園にいる象のような大男は?」
「見ません。」
「では昔の手品師のような様子をした悪者は?」
「見ません。」
「四番目に……いやこいつはだれの目にもはいらない、仲間も手下も使われてる奴《やつ》も、彼を見たことがないんだから、君が見つけなかったからって怪しむに足りん。」
「見ません。いったいそいつらは何者ですか。」とマリユスは尋ねた。
 警視は言った。
「その上まだ奴らの出る時ではないからな。」
 彼はまたちょっと口をつぐんだが、やがて言った。
「五十・五十二番地と。家は知ってる。中に隠れようとすれば、役者どもにきっと見つかる。そうすればただ芝居をやらずに逃げるばかりだ。どうも皆はにかみやばかりで、見物人をいやがるからな。そりゃあいかん、いかん。少し奴らに歌わしたり踊らしたりしたいんだがな。」
 そんな独語を言い終わって、彼はマリユスの方へ向き、じっとその顔を見ながら尋ねた。
「君はこわいかね。」
「何がです?」とマリユスは言った。
「その男どもが。」
「まああなたに対してと同じくらいなものです。」とマリユスはぶしつけに答えた。その警官が自分に向かってぞんざいな言葉ばかり使ってるのを、彼はようやく気づき初めていた。
 警視はなおじっとマリユスを見つめ、一種のおごそかな調子で言った。
「君はなかなか勇気のあるらしい正直者らしい口のきき方をする。勇気は罪悪を恐れず、正直は官憲を恐れずだ。」
 マリユスはその言葉をさえぎった。
「それはとにかく、どうなさるつもりです。」
 警視はただこう答えた。
「あの家に室《へや》を借りてる者は皆、夜分に帰ってゆくための合い鍵《かぎ》を持っている。君も一つ持ってるはずだね。」
「ええ。」とマリユスは言った。
「今そこに持ってるかね。」
「ええ。」
「それを私《わし》にくれ。」と警視は言った。
 マリユスはチョッキの隠しから鍵を取って、それを警視に渡し、そして言い添えた。
「ちょっと申しておきますが、人数を引き連れてこられなければいけません。」
 警視はマリユスに一瞥《いちべつ》を与えた。ヴォルテールがもし田舎出《いなかで》のアカデミー会員から音韻の注意でも受けたら、やはりそんな一瞥《いちべつ》を与えたことだろう。そして警視は、太い両手をマントの大きな両のポケットにずぶりとつっ込み、普通は拳骨《げんこつ》と言わるる鋼鉄の小さなピストルを二つ取り出した。彼はそれをマリユスに差し出しながら、口早に強く言った。
「これを持って、家に帰って、室《へや》に隠れていたまえ。不在らしく見せかけなくちゃいかん。二つとも弾《たま》がこもってる。一梃《いっちょう》に二発ずつだ。よく気をつけて見ているんだ。壁に穴があると言ったね。奴《やつ》らがやってきたら、しばらく勝手にさしておくがいい。そしてここだと思ったら、手を下す時だと思ったら、ピストルを打つんだ。早すぎてはいかん。それからは私《わし》の仕事だ。ピストルを打つのは、空へでも、天井へでも、どこでもかまわん。ただ早くしすぎないことだ。いよいよ仕事が初まるまで待つんだ。君は弁護士と言ったね、それくらいのことはわかってるだろう。」
 マリユスは二梃のピストルを取って、上衣のわきのポケットの中に入れた。
「それじゃふくらんで外から見える。」と警視は言った。「それよりズボンの両方の隠しに入れるがいい。」
 マリユスはピストルを各、ズボンの両の隠しに入れた。
「もうこれで一刻もぐずぐずしておれない。」と警視は言った。「今|何時《なんじ》だ? 二時半か。それは七時だったな。」
「六時です。」とマリユスは言った。
「まだ充分時間はある、が余るほどはない。」と警視は言った。「今言ったことを少しでも忘れてはいかん。ぽーんとピストルを一つ打つんだぞ。」
「大丈夫です。」とマリユスは答えた。
 そしてマリユスが出て行こうとして扉《とびら》のとっ手に手をかけた時、警視は彼に呼びかけた。
「それから、それまでに何か私《わし》に用ができたら、ここに自分で来るか使いをよこすかしたまえ、警視のジャヴェルと言ってくればわかる。」

     十五 ジョンドレット買い物をなす

 それから少したって、三時ごろ、クールフェーラックがボシュエと連れ立って、偶然ムーフタール街を通った。雪はますます降りしきって、空間を満たしていた。ボシュエはクールフェーラックにこんなことを言っていた。
「こう綿をちぎったような雪が落ちて来るのを見ると、何だか天には白い蝶《ちょう》の疫病でも流行してるらしく思えるね。」
 と突然ボシュエは、変な様子をして市門の方へ街路を歩いて行くマリユスの姿を認めた。
「おや、」とボシュエは叫んだ、「マリユスだ。」
「僕も知ってる。」とクールフェーラックは言った。「だが言葉をかけるのはよそうや。」
「なぜだ。」
「気を取られてるんだ。」
「何に?」
「あの顔つきを見たらわかるじゃないか。」
「顔つきって?」
「だれかの跡をつけてるような様子だ。」
「なるほどそうだ。」とボシュエは言った。
「まああの目つきを見てみたま
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