。世間にはどうしたわけのものか少しも老《ふ》けねえ奴《やつ》がいる。それから声までそっくりだ。ただいい服装《なり》をしてるだけのことだ。全く不思議な畜生だが、とうとうとらえてやったというもんだ。」
彼は立ち止まって、娘らの方へ言った。
「お前たちは出て行くんだ。――ばかだな、あれに気がつかなかったって。」
娘らは父の言うとおりに出てゆこうとして立ち上がった。
母親はつぶやいた。
「手にけがをしてるのに……。」
「外の風に当たればなおる。」とジョンドレットは言った。「出て行け。」
明らかに彼にはだれも口答えができないらしい。ふたりの娘は出て行った。
ふたりが扉《とびら》から出ようとした時、亭主は姉娘の腕をとらえ、一種特別な調子で言った。
「お前たちはちょうど五時にここへ帰って来るんだぞ、ふたりいっしょに。用があるんだから。」
マリユスは更に注意して耳を澄ました。
女房とふたりきりになると、ジョンドレットはまた歩き出し、黙って室《へや》の中を二、三度回った。それからしばらくの間、着ていた女シャツの裾《すそ》をズボンの帯の中に押し込んでいた。
突然彼は女房の方を向き、腕を組み、そして叫んだ。
「も一つおもしろいことを聞かしてやろうか。あの娘はな……。」
「え、なに?」と女房は言った、「あの娘が?」
マリユスはもう疑えなかった。まさしくそれは「彼女」のことに違いなかった。彼は非常な懸念で耳を傾けた。彼の全生命は耳の中に集中していた。
しかしジョンドレットは身をかがめ、女房に低い声でささやいた。それから身を起こして、声高に言い添えた。
「彼女《あれ》だ!」
「さっきのが?」と女は言った。
「そうだ。」と亭主は言った。
およそいかなる言葉をもってしても、女房の言ったさっきのが[#「さっきのが」に傍点]? という語のうちにこもってたものを伝えることはできないだろう。驚駭《きょうがい》と憤慨と憎悪《ぞうお》と憤怒とがこんがらがって一つの恐ろしい高調子になって現われたのである。亭主から耳にささやかれた数語、それはおそらくある名前だったろうが、それを聞いたばかりでこの大女は、ぼんやりしていたのがにわかに飛び上がって、いとうべき様子から急に恐るべき様子に変わったのである。
「そんなことがあるもんかね!」と彼女は叫んだ。「家の娘どもでさえ跣足《はだし》のままで長衣もない始末じゃないかね。それに、繻子《しゅす》の外套《がいとう》、ビロードの帽子、半靴《はんぐつ》、それからいろいろなもの、身につけてるものばかりでも二百フランの上になるよ。まるでお姫様だね。いいえお前さんの見違いだよ。それに第一、彼女《あれ》は醜い顔だったが、今のはそんなに悪くもないじゃないか。全く悪い方じゃない。彼女《あれ》のはずはないよ。」
「いや大丈夫|彼女《あれ》だ。今にわかる。」
その疑念の余地のない断定を聞いて、女房は大きな赤ら顔を上げて、変な表情で天井を見上げた。その時マリユスには、亭主よりも彼女の方がはるかに恐ろしく思えた。それは牝虎《めとら》の目つきをした牝豚のようだった。
「ええッ!」と彼女は言った、「うちの娘どもを気の毒そうな目で見やがったあのきれいな嬢さんの畜生が、乞食娘《こじきむすめ》だって。ええあのどてっ腹を蹴破《けやぶ》ってでもやりたい!」
彼女は寝台から飛びおり、髪の毛を乱し、小鼻をふくらまし、口を半ば開け、手を後ろに伸ばして拳《こぶし》を握りしめ、しばらくじっと立っていた。それから、そのまま寝床の上に身を投げ出した。亭主の方は女房に気も留めずに、室《へや》の中を歩き回っていた。
しばらく沈黙の後、彼は女房の方へ近寄って、その前に立ち止まり、前の時のように両腕を組んだ。
「も一ついいことを聞かしてやろうか。」
「何だね。」と彼女は尋ねた。
彼は低い短い声で答えた。
「金蔵《かねぐら》ができたんだ。」
女房は「気が違ったんじゃないかしら」というような目つきで、じっと彼をながめた。
彼は続けて言った。
「畜生! 今まで長い間というもの、火がありゃ腹がへるしパンがありゃ凍えるってわけだった。もう貧乏は飽き飽きだ。俺《おれ》もみんなも首が回らなかったんだ。笑い事じゃねえ、冗談じゃねえ、くそおもしろくもねえや、狂言もおやめだ。へった腹にかき込んで、かわいた喉《のど》につぎ込むんだ。食い散らして眠って何にもしねえ。そろそろこちらの番になってきたんだ。くたばる前に一度は金持ちにもならなけりゃあね!」
彼は室《へや》をぐるりと一回りしてつけ加えた。
「ほかの奴《やつ》らのようにね。」
「いったい何のことだよ?」と女房は尋ねた。
彼は頭を振り、目をまばたき、何か述べ立てようとする大道香具師《だいどうやし》のように声を高めた。
「何のことかというのか、まあ聞けよ。」
「しッ!」と女房は言った。「大きな声をしなさんな。人に聞かれて悪いことだったら。」
「なあに、だれが聞くもんか。お隣か。奴《やっこ》さんさっき出て行ったよ。いたってあのおばかさんが聞きなんかするもんか。だがさっき出かけるのを見たんだ。」
それでも一種の本能からジョンドレットは声を低めた。しかしマリユスに聞こえないほど低くはならなかった。幸いにも雪が降っていて大通りの馬車の音を低くしていたので、マリユスはその会話をすっかり聞き取ることができた。
マリユスが聞いたのは次のような言葉だった。
「よく聞け。黄金の神様がつかまったんだ。つかまったも同じことだ。もう大丈夫だ。手はずはでき上がってる。仲間にも会ってきた。あいつは今晩六時に来る。六十フランを持ってきやがる。どうだ、俺《おれ》の口上はうめえだろう、六十フラン、家主、二月四日。実は一期分も借りはねえんだからな、ばか野郎だ。がとにかく六時にあいつはやって来る。ちょうど隣の先生も飯を食いに行く時分だ。ビュルゴン婆さんも町に皿洗いに行ってる時分だ。家の中にはだれもいやしねえ。お隣は十一時までは帰らねえ。娘どもには番をさしておく。お前は手伝わなくちゃいけねえ。野郎降参するにきまってる。」
「もし降参しなかったら?」と女房は尋ねた。
ジョンドレットはすごい身振りをして言った。
「やっつけてしまうばかりさ。」
そして彼は笑い出した。
彼が笑うのを見るのは、マリユスにとっては初めてだった。その笑いは冷ややかで静かで、人を慄然《りつぜん》たらしむるものがあった。
ジョンドレットは暖炉のそばの戸棚を開き、古い帽子を取り出し、袖でその塵を払って頭にかぶった。
「ちょっと出かけるぜ。」と彼は言った。「まだ会って置かなくちゃならねえ者もいる。みないい奴《やつ》ばかりだ。まあ仕上げを御覧《ごろう》じろだ。なるべく早く帰ってくる。うめえ仕事だ。家に気をつけておけよ。」
そして両手をズボンの隠しにつっ込み、ちょっと考えていたが、それから叫んだ。
「あいつが俺に気づかなかったのは、もっけの仕合わせというものだ。向こうでも気がついたらもうきやしねえ。危うく取りもらす所だった。この髯《ひげ》のおかげで助かったんだ。このおかしな頤髯《あごひげ》でな、このかわいいちょっとおもしろい頤髯でな。」
そして彼はまた笑い出した。
彼は窓の所へ行った。雪はなお降り続いていて灰色の空を隠していた。
「何てひどい天気だ!」と彼は言った。
それから外套《がいとう》の襟《えり》を合わした。
「こいつあ少し大きすぎる。」そしてつけ加えた。「だがまあいいや。あいつが置いてゆきやがったんで大きに助からあ。これがなかったら外へも出られねえし、何もかも手違いになる所だった。世の中の事ってどうかこうかうまくゆくもんだ。」
そして帽子を眼深《まぶか》に引き下げながら、彼は出て行った。
戸口から彼が五、六歩したかどうかと思われるくらいの時、扉《とびら》は再び開いて、その間から彼の荒々しいそしてずるそうな顔が現われた。
「忘れていた。」と彼は言った。「火鉢《ひばち》に炭をおこしておくんだぜ。」
そして彼は女房の前掛けの中に、「慈善家」がくれた五フラン貨幣を投げ込んだ。
「火鉢に炭を?」女房は尋ねた。
「そうだ。」
「幾桝《いくます》ばかり?」
「二桝もありゃあいい。」
「それだけなら三十スーばかりですむ。残りでごちそうでも買おうよ。」
「そんなことをしちゃいけねえ。」
「なぜさ?」
「大事な五フランをむだにしちゃいけねえ。」
「なぜだよ?」
「俺《おれ》の方でまだ買うものがあるんだ。」
「何を?」
「ちょっとしたものだ。」
「どれくらいかかるんだよ。」
「どこか近くに金物屋があったね。」
「ムーフタール街にあるよ。」
「そうだ、町角《まちかど》の所に、わかってる。」
「でもその買い物にいくらかかるんだよ。」
「五十スーか……まあ三フランだ。」
「ではごちそうの代はあまり残らないね。」
「今日は食物《くいもの》どころじゃねえ。もっと大事なことがあるんだ。」
「そう、それでいいよ、お前さん。」
女房のその言葉を聞いて、ジョンドレットは扉《とびら》をしめた。そしてこんどは、彼の足音が廊下をだんだん遠ざかっていって急いで階段をおりてゆくのを、マリユスは聞いた。
その時、サン・メダール会堂で一時の鐘が鳴った。
十三 ひそかに語り合う者は悪人の類ならん
マリユスは夢想家ではあったが、既に言ったとおり、また生来堅固な勇敢な男であった。孤独な瞑想《めいそう》の習慣は、彼のうちに同情と哀憐《あいれん》との念を深めながら、おそらく激昂《げっこう》する力を減じたであろうが、憤慨の力は少しもそこなわれずにいた。彼はバラモン教徒のような慈悲心と法官のような峻厳《しゅんげん》さとを持っていた。蛙《かえる》をあわれむとともに蛇《へび》を踏みつぶすだけの心を持っていた。しかるに彼が今のぞき込んだ所は、蝮《まむし》の穴であった。彼が見た所のものは、怪物の巣であった。
「かかる悪人どもは踏みつぶさなければいけない。」と彼は自ら言った。
解決されるかと思っていた謎《なぞ》は一つも解かれなかった。否かえってすべてはますます不可解になった。リュクサンブールの美しい娘についてもまたルブラン氏と呼んでいる男についても、ジョンドレットが彼らを知っているということのほかには何らの得る所もなかった。そして耳にした怪しい言葉を通してようやく彼にはっきりわかったことは、ただ一事にすぎなかった。すなわち、ある待ち伏せが、ひそかなしかも恐ろしい待ち伏せが、今計画されているということ。ふたりとも、父親の方は確かに、娘の方もたぶん、大なる危険に遭遇せんとしていること。自分はふたりを救わなければならないこと。ジョンドレットの者らの忌むべき策略の裏をかき、その蜘蛛《くも》の巣を破ってしまわなければならないこと。
彼はちょっとジョンドレットの女房に目を注いだ。彼女は片すみから古い鉄の火鉢《ひばち》を引き出し、また鉄屑《てつくず》の中に何かさがしていた。
彼は音を立てないように注意してできるだけ静かに戸棚からおりた。
今なされつつある事柄に対して恐怖の念をいだきながらも、またジョンドレット一家の者らに対して嫌悪《けんお》の感をいだきながらも、彼は自分の愛する人のために力を尽くすようになったと考えて、一種の喜びを感じた。
しかしどうしたらいいものか? ねらわれてるふたりに知らせると言ったところで、ふたりをどこに見いだすことができよう。マリユスはその住所を知らなかった。ふたりはちょっと彼の目の前に現われて、それから再びパリーの深い大きな淵《ふち》の中に沈んでしまったのである。あるいは晩の六時に、ルブラン氏がやって来る時に、扉《とびら》の所に待っていて、罠《わな》のあることを知らせるとしようか。しかしジョンドレットとその仲間の者らは、自分が待ち受けてるのを見つけるに違いない。あたりには人もいないし、向こうの方が強いので、彼らは何とでもして自分を捕えてしまうか、または自分を遠ざけてしまうだろう。そうすれば自分が
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