ひだ》が裂けていた。
御者は馬を止め、目をまばたき、マリユスの方へ左の手を差し出しながら、人差し指と親指との先を静かにこすってみせた。
「何だ?」とマリユスは言った。
「先にお金をどうか。」と御者は言った。
マリユスは十六スーきり持ち合わせがないことを思い出した。
「いくらだ?」と彼は尋ねた。
「四十スー。」([#ここから割り注]訳者注 四十スーは二フランに当たる[#ここで割り注終わり])
「帰ってきてから払おう。」
御者は何の答えもせず、ただラ・パリス([#ここから割り注]訳者注 素朴な小唄[#ここで割り注終わり])の節《ふし》を口笛で吹いて、馬に鞭《むち》を当てて行ってしまった。
マリユスは茫然《ぼうぜん》として馬車が行ってしまうのをながめた。持ち合わせが二十四スー足りなかったために、喜悦と幸福と愛とを失ってしまい、再び暗夜のうちに陥ってしまった。せっかく目が見えてきたのにまた見えなくなってしまった。彼は苦々《にがにが》しく、そして実際深い遺憾の念をもって、その朝あのみじめな娘に与えた五フランのことを思った。その五フランさえ持っていたら、救われ、よみがえり、地獄と暗黒とから脱し、孤独や憂愁やひとり身から脱していたであろう。自分の運命の黒い糸をあの黄金色《こがねいろ》の美しい糸に結び合わせることができたであろう。しかるにその美しい糸口は、彼の目の前にちょっと浮かび出たばかりで、また再び断ち切れてしまったのである。彼は絶望して家に帰った。
ルブラン氏は晩に再びやって来ると約束した、そしてその時こそはうまく跡をつけてやろう、そう彼は考え得たはずである。しかし先刻夢中になってのぞいている時、彼はその約束の言葉をもほとんど聞き取り得なかったのである。
家の階段を上ってゆこうとした時彼は、大通りの向こう側、バリエール・デ・ゴブラン街の寂しい壁の所に、「慈善家」の外套《がいとう》にくるまったジョンドレットの姿を認めた。ジョンドレットは他のひとりの男に口をきいていた。その男は場末の浮浪人[#「場末の浮浪人」に傍点]とも言い得るような人相の悪い奴《やつ》らのひとりだった。そういう奴らは、曖昧《あいまい》な顔つきをし、怪しい独語を発し、悪いことをたくらんでいそうな風付きであって、普通は昼間眠っているもので、それから推すと夜分に仕事をしてるものらしい。
ふたりは立ちながら身動きもしないで、渦巻《うずま》き降る雪の中で話をしていた。その互いに身を寄せ合ってるさまは、確かに警官の目をひくべきものだったが、マリユスはあまり注意を払わなかった。
けれども、彼はいかに心が悲しみに満たされていたとは言え、ジョンドレットが話しかけてるその場末の浮浪人にどこか見覚えがあるような気がしてならなかった。何だかパンショーという男に似てるようだった。パンショーと言えば、クールフェーラックがかつて教えてくれた男で、またその付近ではかなり危険な夜盗だとして知られてる男で、別名をプランタニエもしくはビグルナイユと言っていた。その名前は前編で読者の既に見たところである。このパンショー一名プランタニエ一名ビグルナイユは、後に多くの刑事裁判のうちに現われてきて、ついに有名な悪党となった者であるが、当時はただ名が通ってるというだけの悪者にすぎなかった。そして今日では既に、盗賊強盗らの間にひとりの伝説的人物となっている。彼は王政の終わり頃にはもう一方の首領となっていた。夕方、まさに夜にならんとする頃、囚人らが集まって低くささやき合う時には、彼はフォルス監獄の獅子《しし》の窖《あなぐら》([#ここから割り注]訳者注 ある中庭[#ここで割り注終わり])での噂《うわさ》の種となった。その監獄に行くと、一八四三年に三十人の囚徒が白昼未曾有の脱獄をはかった時に使った排尿道が路地の下を通ってる所、ちょうど便所の舗石《しきいし》の上の方の囲壁の上に、パンショー[#「パンショー」に傍点]という彼の名前を読むことができた。それは彼が脱獄を企てたある時に、自ら大胆にもそこに彫りつけたものである。一八三二年にも、警察は既に彼に目をつけていたが、その頃彼はまだ本当に舞台に立ってはいなかったのである。
十一 惨《みじ》めなる者悲しめる者に力を貸す
マリユスはゆるい足取りで家の階段を上って行った。そして自分の室《へや》にはいろうとする時、自分のあとについてくるジョンドレットの姉娘の姿を廊下に認めた。彼女は彼にとっては見るも不快の種だった。彼の五フランを持ってるのは彼女だった。今更それを返せと言ったところで仕方がない。官営馬車はもうそこにいず、またあの辻馬車《つじばしゃ》は遠くに行っていた。その上彼女は金を返しもすまい。また先刻きたあの人たちの住所を彼女に尋ねても、たぶんむだだろう。彼女はとうていそれを知ってるわけはない。なぜなら、ファバントゥーと署名されていた手紙のあて名は、サン[#「サン」に傍点]・ジャック[#「ジャック」に傍点]・デュ[#「デュ」に傍点]・オー[#「オー」に傍点]・パ会堂の慈悲深き紳士殿[#「パ会堂の慈悲深き紳士殿」に傍点]としてあったばかりだから。
マリユスは室にはいって、後ろに扉《とびら》を押ししめた。
しかし扉はしまらなかった。ふり返って見ると、半ば開いた扉を一つの手がささえていた。
「何だ? だれだ?」と彼は尋ねた。
それはジョンドレットの姉娘だった。
「あああなたですか、」とマリユスはほとんど冷酷に言った、「またきたんですか。何か用ですか。」
娘は何か考えてるらしく、返事もしなかった。朝のような臆面《おくめん》なさはもうなかった。はいってもこないで、廊下の陰の所に立っていた。マリユスはただ半開きの扉《とびら》からその姿を見るだけだった。
「さあどうしたんです。」とマリユスは言った。「何か用があるんですか。」
娘は陰鬱《いんうつ》な目を上げて彼を見た。その目には一種の光がぼんやりひらめいていた。彼女は彼に言った。
「マリユスさん、あなたはふさいでるわね。どうかしたの?」
「私が!」とマリユスは言った。
「ええ、あなたがよ。」
「私はどうもしません。」
「いいえ。」
「本当です。」
「いいえきっとそうだわ。」
「かまわないで下さい。」
マリユスはまた扉を押しやったが、娘はなおそれをささえていた。
「ねえ、あなたはまちがってるわ。」と彼女は言った。「あなたはお金持ちでもないのに、今朝《けさ》大変親切にしてくれたでしょう。だから今もそうして下さいな。今朝あたしに食べるものをくれたでしょう、だからこんどは心にあることを言って下さいな。何かあなたは心配してるわ、よく見えてよ。あたしあなたに心配させたくないのよ。どうしたらいいの。あたしでは役に立たなくて? あたしを使って下さいな。何もあなたの秘密を聞こうっていうんじゃないわ、そんなこと言わなくてもいいわよ。でもあたしだって役に立つこともあってよ。あなたの手伝いぐらいあたしにもできるわ、あたしは父さんの用を助けてるんだもの。手紙を持っていくとか、人の家へいくとか、方々尋ね回るとか、居所をさがすとか、人の跡をつけるとか、そんなことならあたしにもできてよ。ねえ、何のことだかあたしに言って下さいな。どんな人の所へだって行って話してきてあげるわ。ちょっとだれかが口をききさえすれば、それでよくわかってうまくいくこともあるものよ。ねえあたしを使って下さいな。」
ある考えがマリユスの頭に浮かんだ。人はおぼれかかる時には一筋の藁《わら》にもあえてすがろうとする。
彼は娘のそばに寄った。
「聞いておくれ……。」と彼は娘に言った。
彼女は喜びの色に目を輝かしてそれをさえぎった。
「ええあたしにそう親しい言葉を使って下さいな! あたしその方がほんとにうれしいわ。」
「ではね、」と彼は言った、「お前はここに、あの……娘といっしょにお爺《じい》さんを連れてきたんだね。」
「ええ。」
「お前はあの人たちの住所を知ってるのかい。」
「いいえ。」
「それを僕のためにさがし出してくれよ。」
娘の陰鬱《いんうつ》な目つきはうれしそうになっていたが、そこで急に曇ってきた。
「あなたが思っていたことはそんなことなの。」と彼女は尋ねた。
「ああ。」
「あの人たちを知ってるの。」
「いいや。」
「では、」と彼女は早口に言った、「あの娘さんを知っていないのね、そしてこれから知り合いになりたいと言うのね。」
あの人たち[#「あの人たち」に傍点]というのがあの娘さん[#「あの娘さん」に傍点]と変わったことのうちには、何かしら意味ありげなまた苦々《にがにが》しいものがあった。
「とにかくお前にできるかね。」とマリユスは言った。
「あの美しいお嬢さんの居所を聞き出してくることね?」
あの美しいお嬢さん[#「あの美しいお嬢さん」に傍点]というその言葉のうちには、なお一種の影があって、それがマリユスをいらいらさした。彼は言った。
「まあ何でもいいから、あの親と娘との住所だ。なにふたりの住所だけだよ。」
娘はじっと彼を見つめた。
「それであたしに何をくれるの。」
「何でも望みどおりのものを。」
「あたしの望みどおりのものを?」
「ああ。」
「ではきっとさがし出してくるわ。」
彼女は頭を下げ、そして突然ぐいと扉《とびら》を引いた。扉はしまった。
マリユスはひとりになった。
彼は椅子《いす》の上に身を落とし、頭と両腕とを寝台の上に投げ出し、とらえ所のない考えのうちに沈み、あたかも眩暈《げんうん》でもしてるかのようだった。朝以来起こってきたあらゆること、天使《エンゼル》の出現、その消失、あの娘の今の言葉、絶望の淵《ふち》のうちに漂ってきた希望の光、それらが入り乱れて彼の頭にいっぱいになっていた。
突然彼はその夢想から激しく呼びさまされた。
彼はジョンドレットの高いきびしい声を耳にしたのである。その言葉は彼の異常な注意をひくものだった。
「確かにそうだ、俺《おれ》はそうと見て取ったんだ。」
ジョンドレットが言ってるのはだれのことだろう? だれをいったい見て取ったのか。それはルブラン氏のことなのか。「わがユルスュール」の父親のことなのか。でもジョンドレットはいったい彼を知ってるのか。自分の生涯を暗闇《くらやみ》から救ってくれるあらゆる手掛かりは、かくも突然にまた意外に得られようとするのか。自分の愛する者はだれであるか、あの若い娘はいかなる人であるか、その父親はいかなる人であるか、遂にそれがわかろうとするのか。ふたりをおおっていた濃い闇もまさに晴れようとするのか。ヴェールはまさに引き裂かれんとするのか。ああ天よ!
彼は戸棚の上にのぼった、というよりもむしろ飛び上がった。そして例の壁の小穴の近くに位置を占めた。
彼は再びジョンドレットの陋屋《ろうおく》の内部を見た。
十二 ルブラン氏の与えし五フランの用途
一家の様子には前と変わった所はなく、ただ女房と娘たちとが包みの中のものを取り出して、毛の靴下《くつした》やシャツをつけていたばかりだった。新しい二枚の毛布は二つの寝台の上にひろげられていた。
ジョンドレットは今帰ってきたばかりらしかった。まだ外からはいってきたばかりの荒い息使いをしていた。ふたりの娘は暖炉のそばに床《ゆか》の上にすわって、姉の方は妹の手を結わえてやっていた。女房は暖炉のそばの寝床の上に身を投げ出して驚いたような顔つきをしていた。ジョンドレットは室《へや》の中を大またにあちこち歩き回っていた。彼は異様な目つきをしていた。
女房は亭主の前におずおずして呆気《あっけ》に取られてるようだったが、やがてこう言った。
「でも本当かね、確かかね。」
「確かだ。もう八年になるんだが、俺《おれ》は見て取ったんだ。奴《やつ》だと見て取った。一目でわかった。だが、お前にはわからなかったのか。」
「ええ。」
「でも俺《おれ》が言ったじゃねえか、注意しろって。全く同じかっこうで、同じ顔つきで、年も大して取ってはいねえ
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