で叫んだ。「タルマの弟子《でし》でございます、旦那《だんな》、私はタルマの弟子でございます。昔は万事都合がよろしゅうございましたが、只今では誠に不運な身の上になりました。旦那ごらん下さいまし、パンもなければ火もございません。ただ一つの椅子《いす》は藁《わら》がぬけ落ちています。こんな天気に窓ガラスはこわれています。それに家内まで寝ついていまして、病気なのでございます。」
「御気の毒に。」とルブラン氏は言った。
「子供までけがをしています。」とジョンドレットは言い添えた。
小娘は知らない人がきたのに紛らされて、「お嬢様」をながめながら泣きやんでいた。
「泣けったら、大声に泣けよ。」とジョンドレットは彼女に低くささやいた。
と同時に彼はそのけがした手をつねった。彼はそれらのことを手品師のような早業《はやわざ》でやってのけた。
娘は大声を立てた。
マリユスが心のうちで「わがユルスュール」と呼んでいた美しい若い娘は、すぐにその方へやっていった。
「まあかわいそうなお子さん!」と彼女は言った。
「お嬢様、」とジョンドレットは言い進んだ、「この血の出ている手首をごらん下さいまし。日に六スーずつもらって機械で仕事をしていますうちに、こんなことになりました。あるいは腕を切り落とさなければならないかも知れませんのです。」
「そうですか。」と老人は驚いて言った。
小さな娘はその言葉を本気に取って、いかにもうまく泣き出した。
「全くのことでございまして、実にどうも!」と父親は答えた。
しばらく前からジョンドレットは、その慈善家を変な様子でじろじろながめていた。口をききながらも、何か記憶を呼び起こそうとでもするように、注意して彼の様子を探ってるらしかった。そして新来のふたりが小娘にその負傷した手のことを同情して尋ねてる間に乗じて、彼は突然、ぼんやりした元気のない様子で寝床に横たわってる女房のそばへ行き、低い声で言った。
「あの男をよく見ておけ!」
それからルブラン氏の方を向き、哀れな状態を口説き続けた。
「旦那《だんな》、ごらんのとおり私は、着る物とては家内のシャツ一枚きりでございまして、それもこの冬の最中にすっかり破れ裂けています。着物がないので外に出られないような始末でございます。着物一枚でもありましたら、私はマルス嬢([#ここから割り注]訳者注 当時名高い女優[#ここで割り注終わり])の所へでも行くのでございますが。嬢は私を知っていましてごく贔屓《ひいき》にしてくれます。まだトゥール・デ・ダーム街に住んでるのでございましょうか。旦那も御存じですかどうか、私は嬢といっしょに田舎《いなか》で芝居を打ったことがあります。私もいっしょに大成功でございました。で只今でもセリメーヌ([#ここから割り注]訳者注 モリエールの喜劇中の人物で機才ある美人――マルス嬢をさす[#ここで割り注終わり])は、きっと私を救ってくれますでしょう。エルミールはベリゼールに物を恵んでくれますでしょう([#ここから割り注]訳者注 前者はモリエールの喜劇中の人物で正直なる婦人、後者は伝説中の人物で零落せる将軍。――マルス嬢とジョンドレット自身とを指す[#ここで割り注終わり])。ですがこの姿ではどうにもできません。その上一文の持ち合わせもありません。まったく家内が病気なのに無一文なのでございます。娘がひどいけがをしているのに無一文なのでございます。家内は時々息がつまります。年齢《とし》のせいでもございましょうが、また神経も手伝っています。どうにかいたさなくてはなりません。また娘の方も同様で。と申して、医者も薬も、どうして払いましょう、一文もありません。ですからまあわずかなお金でも跪《ひざまず》いて押しいただくような始末でございます。芸術なんていうものもこうなってはみじめなものでございます。美しいお嬢様、それから御親切な旦那様《だんなさま》、さようではございませんか。あなた方は徳と親切とを旨《むね》とされて、いつも教会堂へおいででございますが、私のかわいそうな娘もまた教会堂へお祈りに参っていますので、毎日お姿をお見かけいたしております。私は娘どもを宗教のうちに育てたいのでございます。芝居へなんぞはやりたくないと思いましたので。賤《いや》しい者の娘はえてつまずきやすいものでございます。私はつまらないことは決して聞かせません。いつも名誉だの道徳だの徳操だのを説いてきかせています。娘どもに尋ねてもみて下さいませ。まっすぐの道を歩かなければなりません。娘どもは父として私をいただいています。ちゃんとした家庭を持たぬのがはじまりで、しまいには賤しい稼《かせ》ぎに身を落とすような不幸な者どもではございません。家なしの娘からだれかまわずの夫人となるのが常であります。ですが、ファバントゥーの一家にはそんな者はひとりもありません。私は娘どもをりっぱに教育したいのでありまして、ただ正直になるように、温順になるように、尊い神様を信ずるようにと願っております。――それから旦那、りっぱな旦那様、私どもが明日どんなことになるかは御承知でもございますまい。明日は二月四日で、いよいよの日でございます。家主に待ってもらった最後の日でございます。もし今晩払いをしませんと、明日は、姉娘と、私と、熱のある家内と、けがをしている子供と、私ども四人はここから外に、往来に、追い出されてしまいまして、宿もなく、雨の中を、雪の中を、路頭に迷わなければなりません。かようなわけでございます、旦那様。四期分の、一年分の、借りがあるのでございまして、六十フランになっております。」
ジョンドレットは嘘《うそ》を言った。家賃は四期で四十フランにしかならないはずであるし、またマリユスが二期分を払ってやってから六カ月しかたっていないので、四期分の借りができてるわけもなかった。
ルブラン氏はポケットから五フランを取り出して、それをテーブルの上に置いた。
ジョンドレットはそのわずかな暇に姉娘の耳にささやいた。
「ばかにしてる、五フランばかりでどうしろっていうのか。椅子《いす》とガラスの代にもならねえ。せめて入費《いりめ》ぐらいは置いてくがあたりまえだ。」
その間にルブラン氏は、青いフロックの上に着ていた大きな褐色《かっしょく》の外套《がいとう》をぬいで、それを椅子の背に投げかけた。
「ファバントゥー君、」と彼は言った、「私は今五フランきり持ち合わせがないが、一応娘を連れて家に帰り、今晩またやってきましょう。払わなければならないというのは今晩のことですね……。」
ジョンドレットの顔は不思議な色に輝いた。彼は元気よく答えた。
「さようでございます、尊い旦那様《だんなさま》。八時には家主の所へ持って参らなければなりません。」
「では六時にやってきます、そして六十フラン持ってきましょう。」
「ほんとに御親切な旦那様!」とジョンドレットは夢中になって叫んだ。
そしてすぐに彼は低く女房にささやいた。
「おい、あいつをよく見ておけよ。」
ルブラン氏は若い美しい娘の腕を取って、扉《とびら》の方へ向いた。
「では今晩また、皆さん。」と彼はいった。
「六時でございますか。」とジョンドレットはきいた。
「正六時に。」
その時、椅子《いす》の上にあった外套《がいとう》がジョンドレットの姉娘の目に止まった。
「旦那《だんな》、」と彼女は言った、「外套をお忘れになっています。」
ジョンドレットは恐ろしく肩をそばだて、燃えるような目つきで娘をじろりとにらめた。
ルブラン氏はふり返って、ほほえみながら答えた。
「忘れたのではありません。それは置いてゆくのです。」
「おお私の恩人様、」とジョンドレットは言った、「実に情け深い旦那様、私は涙がこぼれます。せめて馬車までお供さして下さいませ。」
「外に出るなら、」とルブラン氏は言った、「その外套をお着なさい。ひどく寒いですよ。」
ジョンドレットは二言と待たなかった。彼はすぐにその褐色《かっしょく》の外套を引っかけた。
そしてジョンドレットが先に立って、三人は室《へや》を出て行った。
十 官営馬車賃――一時間二フラン
マリユスはその光景をすっかりながめた。しかし実際は何もはっきり見て取ることはできなかった。彼の目は若い娘の上に据えられており、彼の心は、彼女がその室に一歩ふみ込むや否や、言わば彼女をつかみ取り彼女をすっかり包み込んでしまっていた。彼女がそこにいる間、彼はまったく恍惚《こうこつ》たる状態にあって、あらゆる物質的の知覚を失い、全心をただ一点に集注していた。彼がながめていたものはその娘ではなくて、繻子《しゅす》の外套《がいとう》とビロードの帽子とをつけた光明そのものだった。シリウス星が室《へや》の中にはいってきたとしても、彼はそれほど眩惑《げんわく》されはしなかったであろう。
若い娘が包みを開き、着物と毛布とをそこにひろげ、病気の母親に親切な言葉をかけ、けがした娘にあわれみの言葉をかけてる間、彼はその一挙一動を見守り、その言葉を聞き取ろうとした。その目、その額、その美貌《びぼう》、その姿、その歩き方を彼は皆知っていたが、その声の音色はまだ知らなかった。かつてリュクサンブールの園でその数語を耳にしたように思ったこともあったが、それも確かにそうだとはわからなかった。そしてもし彼女の声をきくならば、その音楽の響きを少しでも自分の心のうちにしまい込むことができるならば、十年ほど自分の生命を縮めても惜しくないとまで思った。けれどもジョンドレットの哀願の声やラッパのような嘆声に、彼女の声はすっかり消されてしまった。マリユスは狂喜とともに憤怒の情をさえ覚えた。彼は目の中に彼女の姿を包み込んでいた。その恐ろしい陋屋《ろうおく》のうちの怪物どもの間に、神聖なる彼女を見いだそうとは、夢にも思いがけないことだった。彼は蟇《がま》の間に蜂雀《ほうじゃく》を見るような気がした。
彼女が出て行った時、彼はただ一つのこときり考えなかった、すなわち、そのあとに従い、その跡をつけ、住所を知るまでは決して離れず、少なくともかく不思議にもめぐり会った以上はもはや決して見失うまいということ。で彼は戸棚《とだな》から飛びおり、帽子を取った。そして扉《とびら》のとっ手に手をかけまさに外に出ようとした時、ふと足を止めて考えた。廊下は長く、階段は急であり、その上ジョンドレットは饒舌《おしゃべり》だから、ルブラン氏はまだおそらく馬車に乗ってはいないだろう。もしルブラン氏が、廊下でか階段でかまたは門口の所でふり返って、この家の中に自分がいることに気づきでもしようものなら、きっと警戒して再び自分からのがれようとするだろう。そしてそれでまた万事おしまいである。何としたらいいものか。少し待つとしようか。しかし待ってる間に、馬車は走り去ってしまうかも知れない。マリユスはまったく困惑した。がついに彼は危険をおかして室《へや》を出た。
もう廊下にはだれもいなかった。彼は階段の所へ走っていった。階段にもだれもいなかった。大急ぎで階段をおり、大通りに出ると、ちょうど馬車がプティー・バンキエ街の角《かど》を曲がって市中へ帰ってゆくのが見えた。
マリユスはその方へ駆けていった。大通りの角までゆくと、ムーフタール街を走り去る馬車がまた見えた。しかしもうよほど遠くなので、とうてい追っつけそうもなかった。後を追って駆け出す、そんなこともできない。その上、足にまかして追っかける者があれば馬車の中からよく見えるので、老人はすぐに自分だということに気づくに違いない。しかしちょうどその時、思いがけなくもふとマリユスは、官営馬車が空《から》のままで大通りを過ぎるのを認めた。今はもう、その馬車に乗って先の馬車の跡をつけるよりほかに方法はなかった。そうすれば安心で確実でまた危険の恐れもない。
マリユスは手を挙げて御者を呼びとめ、そして叫んだ。「時間ぎめで!」
マリユスはえり飾りもつけていず、ボタンの取れた古い仕事服を着、シャツは胸の所の一つの襞《
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