に教会堂から出るのを見たわ、それから辻馬車に乗る所も。あたしちゃんと、廊下の一番奥の右手の戸だって言っておいたよ。」
「それでもどうしてきっと来ることがわかるんだ。」
「馬車がプティー・バンキエ街へ来るのを見たのよ。だから駆けてきたんだわ。」
「どうしてその馬車だってことがわかる?」
「ちゃんと馬車の番号を見といたんだよ。」
「何番だ。」
「四百四十番よ。」
「よしお前は悧巧《りこう》な娘《こ》だ。」
 娘はまじまじと父を見つめ、そして足にはいてる靴《くつ》を見せながら言った。
「悧巧《りこう》な娘かも知れないわ。だがあたしはもうこんな靴はごめんよ、もうどうしたっていやよ。第一|身体《からだ》に悪いし、その上みっともないわ。底がじめじめして、しょっちゅうぎいぎい言うのくらい、いやなものったらありはしない。跣足《はだし》の方がよっぽどましだわ。」
「もっともだ。」と父は答えた。そのやさしい調子は娘の荒々しい言い方と妙な対照をなしていた。「だが教会堂へは靴をはかなくちゃはいれねえからな。貧乏な者だって靴をはかなきゃならねえ。神様の家へは跣足では行かれねえよ。」と彼は苦々《にがにが》しくつけ加えた。それからまた頭を占めてる問題に返って言った。「ではきっと来るんだな?」
「すぐあたしのあとにやって来るよ。」と娘は言った。
 男は身を起こした。顔には一種の輝きがあった。
「おいお前、」と彼は叫んだ、「聞いたか。今慈善家が来るんだ。火を消しておけよ。」
 女房はあきれ返って身動きもしなかった。
 父親は軽業師《かるわざし》のようにすばやく、暖炉の上にあった口の欠けた壺《つぼ》を取り、燃えさしの薪の上に水をぶちまけた。
 それから姉娘の方へ向いて言った。
「お前は椅子《いす》の藁《わら》を抜くんだ。」
 娘はそれが何のことだかわからなかった。
 父は椅子をつかみ、踵《かかと》で一蹴《ひとけ》りして、腰掛け台の藁を抜いてしまった。彼の足はそこをつきぬけた。足を引きぬきながら、彼は娘に尋ねた。
「今日は寒いか。」
「大変寒いわ。雪が降ってるよ。」
 父は窓の近くの寝床にすわってた妹娘の方を向いて、雷のような声で怒鳴った。
「おい、寝床からおりろ、なまけ者が。いつもつくねんとしてばかりいやがる。窓ガラスでもこわせ。」
 娘は震えながら寝床から飛びおりた。
「窓ガラスをこわせったら!」と父はまた言った。
 娘は呆気《あっけ》に取られて立っていた。
「わからねえのか。」と父はくり返した。「窓ガラスを一枚こわせと言うんだ。」
 娘はただ恐ろしさのあまり父の言葉に従って、爪先で背伸びをし、拳《こぶし》をかためて窓ガラスを打った。ガラスはこわれて、大きな音をして下に落ちた。
「よし。」と父は言った。
 彼は着実でまた性急だった。部屋のすみずみまで急いで見回した。
 彼の様子はちょうど、戦争が初まろうとする時に当たって、早くも最後の準備をする将軍のようだった。
 それまで一言も口をきかなかった母親は、ようやく立ち上がって、ゆっくりした重々しい声で尋ねた。その言葉は凍って出て来るかのようだった。
「あんた、何をするつもりだね?」
「お前は寝床に寝ていろ。」と男は答えた。
 その調子は考慮の余地を人に与えなかった。女房はそれに従って、寝床の上に重々しく身を横たえた。
 そのうちに、片すみですすり泣く声がした。
「何だ?」と父親は叫んだ。
 妹娘はなおすみっこにうずくまったまま、血にまみれた拳《こぶし》を出して見せた。窓ガラスをこわす時けがしたのである。彼女は母親の寝床のそばに行って、黙って泣いている。
 こんどは母親が身を起こして叫んだ。
「まあごらんよ。何てばかなことをさせたもんだね。ガラスなんかこわさしたから手を切ったんじゃないか。」
「その方がいい。」と男は言った。「初めからそのつもりだ。」
「なんだって、その方がいいって?」と女は言った。
「静かにしろ!」と男は答え返した。「俺は言論の自由を禁ずるんだ。」
 それから彼は自分が着ていた女のシャツを引き裂いて、細い布片をこしらえ、それで娘の血にまみれた拳《こぶし》を急いで結わえた。
 それがすむと、彼は満足げな目つきで自分の裂けたシャツを見おろした。
「おまけにシャツもだ。」と彼は言った。「なかなかいい具合に見える。」
 凍るような風が窓ガラスに音を立てて、室《へや》の中に吹き込んできた。外の靄《もや》も室にはいってきて、目に見えない指でぼーっとほごされるほの白い綿のようにひろがっていった。ガラスのこわれた窓からは、雪の降るのが見られた。前日聖燭節の太陽で察せられた寒気が、果たしてやってきたのである。
 父親はぐるりとあたりを見回して、何か忘れたものはないかと調べてるようだった。それから、古い十能を取上げて湿った薪《たきぎ》の上に灰をかぶせ、すっかりそれを埋めてしまった。
 それから立ち上がって、暖炉に寄りかかって言った。
「さあこれで慈善家を迎えることができる。」

     八 陋屋《ろうおく》の中の光

 姉娘は父親の所へ寄ってきて、彼の手の上に自分の手を置いた。
「触《さわ》ってごらん、こんなに冷いわ。」と彼女は言った。
「なあんだ、」と父は答えた、「俺《おれ》の方がもっと冷い。」
 母親は性急に叫んだ。
「お前さんはいつでもだれよりも上だよ、苦しいことでもね。」
「黙ってろ。」と男は言った。女は一種のにらみ方をされて黙ってしまった。
 陋屋《ろうおく》の中は一時静まり返った。姉娘は平気な顔をしてマントの裾《すそ》の泥を落としていた。妹の方はなお泣き続けていた。母親は両手に娘の頭を抱えてやたらに脣《くちびる》をつけながら、低くささやいていた。
「いい児だからね、泣くんじゃないよ、何でもないからね。泣くとまたお父さんに怒られるよ。」
「いやそうじゃねえ。」と父は叫んだ。「泣け、泣け。泣く方がいいんだ。」
 それから彼は姉娘の方へ向いて言った。
「どうしたんだ、こないじゃねえか。こなかったらどうする。火は消す、椅子《いす》はこわす、シャツは裂く、窓ガラスはこわす、そして一文にもならねえんだ。」
「おまけに娘にはけがをさしてさ!」と母親はつぶやいた。
「おい、」と父親は言った、「この屋根はべらぼうに寒いじゃねえか。もしこなかったらどうするんだ。これはまた何て待たせやがるんだ。こうも思ってるんだろう、『なあに待たしておけ、それがあたりまえだ!』本当にいまいましい奴らだ。締め殺してでもやったら、どんなにいい気持ちでおもしろくて溜飲《りゅういん》が下がるかわからねえ。あの金持ちの奴らをよ、みんな残らずさ。どいつもこいつも慈悲深そうな顔をしやがって、体裁ばかりつくりやがって、弥撒《ミサ》には行くし、坊主には物を送ったり阿諛《おべっか》を使ったりしやがる。そのくせ俺《おれ》たちより上の者だと思い込んで、恥をかかせにやってきやがる。着物を施すなんて言いながら、四スーも出せばつりがこようっていうぼろを持ってくるし、それにまたパンとくるんだ。そんなもの俺は欲しくもねえ。皆わからずやばかりだ。俺《おれ》が欲しいなあ金だ。ところが金ときては一文も出しやがらねえ。金をくれても飲んでしまうと言ってやがる。俺たちは酒飲みでなまけ者だと言ってやがる。そして御当人は! 奴らはいったい何だい。若《わけ》え時には何をしてきたんだい。泥坊じゃねえか。そうででもなけりゃあ金持ちになれるわけはねえ。ええ、世間は四すみから持ち上げて、すぽっと投げ出しちまうがいい。みんなつぶれっちまうかも知れねえ。つぶれなくっても、皆無一文になるわけだ。それだけ儲《もう》けものだ。――だがあの慈善家のばか野郎、いったい何をしてるんだ。本当に来るのか。ことによると番地を忘れたかな。あの爺《じじい》の畜生め……。」
 その時軽く扉《とびら》をたたく音がした。男は飛んでいって扉を開き、うやうやしくおじぎをし、景慕のほほえみを浮かべて、叫んだ。
「おはいり下さい。御親切な旦那《だんな》、また美しいお嬢様も、どうかおはいり下さい。」
 年取ったひとりの男と若いひとりの娘とが、その屋根部屋の入り口に現われた。
 マリユスはまだのぞき穴の所を去っていなかった。そして今彼が受けた感じは、とうてい人間の言葉をもっては現わせない。
 現われたのは実に彼女[#「彼女」に傍点]だった。
 およそ恋をしたことのある者は「彼女」という語の二字のうちに含まれる光り輝く意味を知っているであろう。
 まさしく彼女であった。マリユスは突然眼前にひろがった光耀《こうよう》たる霧を通して、ほとんど彼女の姿を見分けることができないくらいだった。がそれはまさしく、姿を隠したあのやさしい娘だった、六カ月の間彼に輝いていたあの星だった、あの瞳《ひとみ》、あの額、あの口、消え去りながら彼を暗夜のうちに残したあの美しい顔だった。その面影は一度見えなくなったが、今また現われたのである。
 その面影は再び、この影の中に、この屋根部屋《やねべや》の中に、この醜い陋屋《ろうおく》の中に、この恐ろしい醜悪の中に、現われきたったのである。
 マリユスは我を忘れておののいた。ああまさしく彼女である! 彼は胸の動悸《どうき》のために目もくらむほどだった。まさに涙を流さんばかりになった。ああ、あれほど長くさがしあぐんだ後ついにめぐり会おうとは! 彼はあたかも、自分の魂を失っていたのをまた再び見いだしたような気がした。
 彼女はやはり以前のとおりで、ただ少し色が青くなってるだけだった。その妙《たえ》なる顔は紫ビロードの帽子に縁取られ、その身体は黒繻子《くろじゅす》の外套《がいとう》の下に隠されていた。長い上衣の下からは絹の半靴《はんぐつ》にしめられた小さな足が少し見えていた。
 彼女はやはりルブラン氏といっしょだった。
 彼女は室《へや》の中に数歩進んで、テーブルの上にかなり大きな包みを置いた。
 ジョンドレットの姉娘は、扉《とびら》の後ろに退いて、そのビロードの帽子、その絹の外套、またその愛くるしい幸福な顔を、陰気な目つきでながめていた。

     九 泣かぬばかりのジョンドレット

 部屋はきわめて薄暗かったので、外からはいってくるとちょうど窖《あなぐら》へでもはいったような感じがする。それで新来のふたりは、あたりのぼんやりした物の形を見分けかねて、少しく躊躇《ちゅうちょ》しながら進んできた。しかるに家の者らは、屋根裏に住む者の常として薄暗がりになれた目で、彼らの姿をすっかり見て取ることができて、じろじろうちながめていた。
 ルブラン氏は親切そうなまた悲しげな目つきで近づいてきて、ジョンドレットに言った。
「さあこの包みの中に、新しい着物と靴足袋《くつたび》と毛布とがはいっています。」
「神様のような慈悲深いお方、いろいろありがとう存じます。」とジョンドレットは頭を床にすりつけんばかりにして言った。――それから、ふたりの客があわれな部屋《へや》の内部を見回してる間に、彼は姉娘の耳元に身をかがめて、低く口早に言った。
「へん、俺が言ったとおりじゃねえか。ぼろだけで、金は一文もくれねえ。奴《やつ》らはみんなそうだ。ところでこの老耄《おいぼれ》にやった手紙には、こちらの名前は何として置いたっけな。」
「ファバントゥーよ。」と娘は答えた。
「うむ俳優だったな、よし。」
 それを思い出したのはジョンドレットに仕合わせだった。ちょうどその時ルブラン氏は、彼の方へ向いて、名前を思い出そうとしてるような様子で彼に言った。
「なるほどお気の毒です、ええと……。」
「ファバントゥーと申します。」ジョンドレットは急いで答えた。
「ファバントゥー君と、なるほどそうでしたな、ええ覚えています。」
「俳優をしていまして、元はよく当てたこともございますので。」
 そこでジョンドレットは、この慈善家を捕うべき時がきたと思い込んだ。で彼は、市場香具師《いちばやし》のような大げさな調子と大道乞食《だいどうこじき》のような哀れな調子とをないまぜた声
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