い。」とクールフェーラックはまた言った。
「だがいったいだれの跡をつけてるんだろう。」
「いずれかわいい者に違いない。夢中になってるんだ。」
「だがね、」とボシュエは注意した、「街路にはかわいいのかの字も見えないじゃないか。女なんてひとりもいやしない。」
 クールフェーラックはよくながめた、そして叫んだ。
「男の跡をつけてるんだ。」
 実際、後ろからでも灰色の髯《ひげ》がよく見えてるひとりの男が帽子をかぶって、マリユスから二十歩ばかり先に歩いていた。
 その男は大きすぎて身体によく合わないま新しい外套《がいとう》をつけ、泥にまみれてるぼろぼろになったひどいズボンをはいていた。
 ボシュエは笑い出した。
「あの男はいったい何だい。」
「あれか、」とクールフェーラックは言った、「まあ詩人だね。詩人って奴《やつ》はよく、兎《うさぎ》の皮売りみたいなズボンをはき、上院議員みたいな外套を着てるものだ。」
「マリユスがどこへ行くか見てやろうよ、」とボシュエは言った、「あの男がどこへ行くか見てやろうよ。ふたりの跡をつけてやろう、おい。」
「ボシュエ!」とクールフェーラックは叫んだ、「エーグル・ド・モー(モーの鷲《わし》)、なるほど君はすてきな獣だね。男の跡をつけてる男を、また追っかけて行こうというんだからな。」
 それで彼らは道を引き返した。
 マリユスは実際、ムーフタール街をジョンドレットが通るのを見て、その様子をうかがっていたのである。
 ジョンドレットは後ろから既に目をつけられていようとは夢にも思わないで、まっすぐに歩いて行った。
 彼はムーフタール街を離れた。マリユスはグラシユーズ街の最も下等な家の一つに彼がはいるのを見た。十五分ばかりして彼はそこから出てきて、それからまたムーフタール街に戻ってきた。当時ピエール・ロンバール街の角《かど》にあった金物屋に彼は足を止めた。それからしばらくしてマリユスは、彼がその店から出て来るのを見た。彼は白木の柄のついた冷やりとするような大きな鑿《のみ》を、外套《がいとう》の下に隠し持っていた。プティー・ジャンティイー街の端まで行って彼は左に曲がり、足早にプティー・バンキエ街へはいった。日は暮れようとしていた。ちょっとやんだ雪はまた降り出していた。マリユスは同じプティー・バンキエ街の角に身を潜めた。街路にはやはり人の姿も見えなかった。マリユスはジョンドレットの跡をつけてその街路に出るのをやめた。それはマリユスにとって幸いだった。なぜなら、彼が先刻長髪の男と髯《ひげ》の男との話を聞いた低い壁の所まで行くと、ジョンドレットはふり返ってながめ、跡をつけてる者も見てる者もないのを確かめ、それから壁をまたぎ、姿を消してしまったのである。
 その壁に囲まれた荒れ地は、あまり評判のよくない古い貸し馬車屋の後庭に続いていた。その馬車屋はかつて破産したことがあったが、まだ小屋の中には四、五台の古馬車を持っていた。
 ジョンドレットの不在の間に帰ってゆく方が悧巧《りこう》だとマリユスは考えた。その上もうだいぶ遅くもなっていた。毎晩早くから、ビュルゴン婆さんは町に皿洗いに出かけて、いつも戸を閉ざすことにしていたので、家の戸はきまって暮れ方には締まりがしてあった。ところがマリユスは鍵《かぎ》を警視に渡してしまった。それで急いで帰る必要があった。
 夕方になっていた。夜は刻々に迫っていた。地平線の上にもまた広い大空のうちにも、太陽に照らされた所はただ一カ所あるきりだった、すなわち月が。
 月はサルペートリエール救済院の低い丸屋根のかなたに、赤く上りかけていた。
 マリユスは大またに歩いて五十・五十二番地へ帰ってきた。その時まだ戸は開いていた。彼は爪先だって階段を上り、廊下の壁伝いに自分の室《へや》にすべり込んだ。読者の記憶するとおり、廊下の両側は屋根部屋《やねべや》で、その頃皆あいていて貸し間になっていた。ビュルゴン婆さんはいつもそれらの扉《とびら》をあけ放しにしていた。マリユスはそれらの扉の一つの前を通る時、その空室の中にじっと動かない四つの人の顔が、軒窓から落ちる昼のなごりの明るみにぼんやりほの白く浮き出してるのを、ちらと見たような気がした。しかし彼は自分の方で人に見られたくなかったので、それを見届けようともしなかった。彼はついに、人に見られもせずまた音も立てずに自分の室にはいり込んだ。ちょうど危うい時だった。ビュルゴン婆さんが出かけて家の戸がしまる音を、それから間もなく彼は聞いた。

     十六 一八三二年流行のイギリス調の小唄《こうた》

 マリユスは寝台に腰掛けた。五時半ごろだった。事の起こるまでにはただ三十分を余すのみだった。あたかも暗闇《くらやみ》の中で時計の秒を刻む音をきくように、彼は自分の動脈の音を聞いた。そしてひそかに到来しつつある二つの事がらを思いやった、一方から歩を進めつつある罪悪と他方からきつつある法権とを。彼は恐れてはいなかった、しかしまさに起こらんとする事を考えてはある戦慄《せんりつ》を禁じ得なかった。意外のできごとに突然襲われた人がよく感ずるように彼にもその一日はまったく夢のように思われた。そして何か悪夢につかれてるのでないことを確かめるために、彼はズボンの隠しの中で鋼鉄の二梃のピストルの冷ややかさに手を触れてみなければならなかった。
 雪はもうやんでいた。月はしだいに冴《さ》えてきて靄《もや》から脱し、その光は地に積った雪の白い反映と交じって、室《へや》の中に暁のような明るみを与えた。
 ジョンドレットの室の中には明りがあった。マリユスは壁の穴が血のように赤い光に輝いてるのを見た。
 その光はどうしても蝋燭《ろうそく》のものらしくは思えなかった。そしてまたジョンドレットの室の中には、何ら動くものもなく、だれも身動きもせず口もきかず、呼吸の音さえ聞こえず、氷のような深い沈黙に満たされていて、もしその光がなかったら、墓場かとも思われるほどだった。
 マリユスは静かに靴《くつ》をぬいで、それを寝台の下に押し込んだ。
 数分過ぎ去った。マリユスは表の戸がぎーと開く音を聞いた。重い早い足音が階段を上ってき、廊下を通っていって、それから隣の室《へや》の掛け金が音高くはずされた。それはジョンドレットが帰ってきたのだった。
 すぐに多くの声が聞こえ出した。一家の者は皆室の中にいた。ちょうど狼《おおかみ》の子が親狼の不在中黙ってるように、一家の者は主人の不在中黙っていたまでである。
「俺《おれ》だ。」と主人は言った。
「お帰んなさい。」と娘らは変な声を立てた。
「どうだったね?」と母親は言った。
「この上なしだ。」とジョンドレットは答えた。「だがばかに足が冷てえ。うむ、なるほどお前はうまくおめかしをしたな。向こうに安心させなけりゃいけねえからな。」
「すっかり出かけるばかりだよ。」
「言っといた事を忘れちゃいけねえ。うまくやるんだぜ。」
「大丈夫だよ。」
「と言うのはな……。」とジョンドレットは言いかけて、皆まで言わずにしまった。
 マリユスは彼が何か重いものをテーブルの上に置く音を聞いた。たぶん買ってきた鑿《のみ》ででもあったろう。
「ところで、」とジョンドレットは言った、「みな何か食ったか。」
「ああ、」と母親は言った、「大きい馬鈴薯《じゃがいも》を三つと塩を少し。ちょうど火があるから焼いたんだよ。」
「よし、」とジョンドレットは言った、「明日《あす》はごちそうを食いに連れてってやる。家鴨《あひる》の料理とそれからいろいろなものがついてさ、まるでシャール十世の御殿の晩餐《ばんさん》のようにな。すっかりよくなるんだ。」
 それから声を低めて彼はつけ加えた。
「鼠罠《ねずみわな》の口はあいてるし、猫《ねこ》どもももうきている。」
 そしてなおいっそう声を低めてまた言った。
「それを火の中に入れて置け。」
 マリユスは火箸《ひばし》かまたは何か鉄器で炭をかき回す音を聞いた。ジョンドレットは続けて言った。
「音のしねえように扉《とびら》の肱金《ひじがね》には蝋《ろう》を引いて置いたか。」
「ああ。」と母親は答えた。
「今何時だ。」
「もうすぐに六時だろう。サン・メダールでさっき半《はん》が打ったんだから。」
「よし。」とジョンドレットは言った。「娘どもは見張りをしなくちゃいけねえ。おい、ふたりともこっちへきてよく聞きな。」
 しばらく何かささやく声がした。
 ジョンドレットはまた高い声をあげた。
「ビュルゴン婆さんは出て行ったか。」
「ああ。」と母親は言った。
「隣にもだれもいねえんだな。」
「一日留守だったよ、それに今は食事の時分じゃないか。」
「確かだね。」
「確かだよ。」
「まあとにかく、」とジョンドレットは言った、「いるかどうか見に行ったってさしつかえねえ。おい娘、蝋燭《ろうそく》を持って見てきな。」
 マリユスは四つばいになって、こっそり寝台の下にはいり込んだ。
 彼が隠れ終わるか終わらないうちに、すぐ扉《とびら》のすき間から光が見えた。
「お父さん、」という声がした、「出かけてるよ。」
 それは姉娘の声だった。
「中にはいったのか。」と父親が尋ねた。
「いいえ、」と娘は答えた、「でも鍵《かぎ》が扉についてるから、きっと出かけたんだよ。」
 父親は叫んだ。
「でもまあはいってみろ。」
 扉が開いた。マリユスはジョンドレットの姉娘が手に蝋燭を持ってはいって来るのを見た。その様子は朝と少しも変わっていなかったが、ただ蝋燭の光で見るといっそう恐ろしく見えた。
 彼女は寝台の方へまっすぐに進んできた。マリユスはその間言葉にもつくし難いほど心配した。しかし彼女がやってきたのは、寝台の側に壁に掛かってる鏡の所へであった。彼女は爪先で伸び上がって、鏡の中をのぞいた。隣の室には鉄の道具を動かす音が聞こえていた。
 娘は手の平で髪をなでつけ、鏡に向かってほほえみながら、その気味の悪いつぶれた声で歌った。

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われらの恋は七日なりけり。
ああたのしみのいかに短き、
八日の愛も難かりければ!
恋は永《とこし》えなるべきに、
恋は永えなるべきに!
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 その間マリユスは震えていた。そして自分の荒い息使いはきっと彼女の耳につくに違いないという気がした。
 娘は窓の方へ行って、外を見ながら、いつもの半ば気ちがいじみた様子で声高に言った。
「パリーも白いシャツをつけた所は何て醜いだろう!」
 そしてまた鏡の所へ帰ってきて、自分の顔をまっ正面から映してみたり少し横向きに映してみたりして、様子をつくっていた。
「おい、」と父親が叫んだ、「何をしてるんだ。」
「寝台の下や道具の下を見てるのよ。」と彼女はやはり髪を直しながら答えた。「だれもいやしないわ。」
「ばか!」と父親はどなった。「早く帰ってこい。ぐずぐずしてるんじゃねえ。」
「今行くよ、今すぐ。」と彼女は言った。「ほんとにちょっとの暇もありゃあしない。」
 そして小声に歌った。

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誉れを求めて君去りゆかば、
何処《いずこ》までもと我追いゆかん。
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 彼女は最後に鏡をじろりと見て、扉《とびら》を後ろにしめながら出て行った。
 しばらくするとマリユスは、廊下にふたりの娘の跣足《はだし》の足音を聞いた。そしてまた、彼女らに呼びかけてるジョンドレットの声を聞いた。
「よく気をつけるんだぞ。ひとりは市門の方で、ひとりはプティー・バンキエ街の角《かど》だ。ちょっとでも家の戸口から目を離してはいけねえ。何か見えたらすぐにやってこい、大急ぎで飛んでくるんだ。はいる時の鍵《かぎ》は持ってるね。」
 姉の方はつぶやいた。
「雪の中に跣足で番をさせるなんて!」
「明日はまっかな絹靴《きぬぐつ》を買ってやらあね。」と父親は言った。
 ふたりの娘は階段をおりていった。そしてすぐに下の戸のしまる響きが聞こえたのでみると、ふたりは外に出て行ったらしい。
 家の中にいるのはもう、マリユスとジョンドレッ
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