して初まるのである。その上、この嫉妬の念を外にしても、そのかわいらしい脛《はぎ》を見ることは、彼にとっては少しも快いことではなかった。偶然出会う何でもない婦人の白い靴下《くつした》を見せられる方が、彼にとってはまだしもいやでなかったろう。
「彼のユルスュール」は、道の向こうの端まで行き、ルブラン氏とともに引き返してきて、マリユスが再び腰をおろしていたベンチの前を通った。その時マリユスは気むずかしい荒い一瞥《いちべつ》を彼女に与えた。若い娘はちょっと身を後ろにそらせるようにし、それとともに眼瞼《まぶた》を上の方に上げた。「まあどうなすったのだろう!」という意味だった。
それは彼らの「最初の争い」だった。
マリユスが目の叱責《しっせき》を彼女に与え終わるか終わらないうちに、一人の男がその道に現われた。それは腰の曲がったしわだらけな白髪の老廃兵で、ルイ十五世式の軍服をつけ、兵士のサン・ルイ会員章たる、組み合わした剣のついてる小さな楕円形《だえんけい》の赤ラシャを胴につけ、その上、上衣の片袖《かたそで》には中に腕がなく、頤《あご》には銀髯《ぎんぜん》がはえ、一方の足は義足だった。マリユスはその男の非常に満足げな様子がそれと見て取らるるような気がした。またその皮肉な老人が自分のそばをびっこひいて通りながら、ごく親しい愉快そうな目配せをしたように思えた。あたかも偶然にふたりは心を通じ合って、いっしょに何かうまいことを味わったとでも、自分に伝えてるらしく彼には思えた。その剣の端くれの老耄《おいぼれ》めが、いったい何でそう満足げにしてるのか。奴《やつ》の義足と娘の脛《はぎ》との間に何の関係があるか。マリユスは嫉妬の発作に襲われた。「彼奴《あいつ》もいたんだろう。あれを見たに違いない!」と彼は自ら言った。そして彼はその老廃兵をなきものにしたいとまで思った。
時がたつに従っていかなる尖端《きっさき》も鈍ってくる。「ユルスュール」に対するマリユスの憤りも、たとい正しいまた至当なものであったとしても、やがて過ぎ去ってしまった。彼はついにそれを許した。しかしそれには多大の努力を要し、三日の間というものは不平のうちに過ごした。
とは言うものの、そんなことのあったにもかかわらず、またそんなことがあったために、彼の情熱はますます高まって狂わんばかりになった。
九 日食
彼女[#「彼女」に傍点]はユルスュールという名であることを、マリユスがいかにして発見したか、否発見したと思ったか、それは読者の既に見てきたところである。
欲望は愛するにつれて起こってくる。彼女がユルスュールという名であることを知ったのは、既に大したことである、しかもまたきわめて些事《さじ》である。マリユスは三、四週間のうちにその幸福を食い尽してしまった。彼は新たに他の幸福を欲した。彼は彼女がどこに住んでるかが知りたくなった。
彼はグラディアトゥールのベンチの策略に陥って、第一の失策を演じた。ルブラン氏がひとりで来る時にはリュクサンブールの園に止まることをしないで、第二の失策を演じた。それからまた第三の失策をやった。それは非常な失策だった。彼は「ユルスュール」のあとをつけたのである。
彼女はウエスト街の最も人通りの少ない場所に住んでいた。見たところ質素な、四階建ての新しい家だった。
それ以来マリユスは、リュクサンブールで彼女に会うという幸福に加えて、彼女のあとにその家までついてゆくという幸福を得た。
彼の渇望は増していった。彼女の名前を、少なくともその幼名、かわいい名、本当の女らしい名を、彼は知っていた。彼女の住居をも知った。そしてこんどは、どういう身分であるかを知りたくなった。
ある日の夕方、その家までふたりのあとについて行った時、ふたりの姿が正門から見えなくなった時、彼は続いてはいって行き、勇敢にも門番に尋ねた。
「今帰っていった人は、二階におらるる方ですか。」
「いいえ、」門番は答えた、「四階にいる人です。」
それでまた一歩進んだわけである。そしてその成功はマリユスを大胆ならしめた。
「表に向いてる室《へや》ですか。」と彼は尋ねた。
「えー!」と門番は言った、「人の家というものは皆往来に向けて建ててあるものですよ。」
「そしてあの人はどういう身分の人ですか。」とマリユスはまた尋ねた。
「年金があるんです。ずいぶん親切な人で、大した金持ちというのではないが、困る者にはよく世話をして下さるんです。」
「名前は何というんですか。」とマリユスはまたきいた。
門番は頭を上げて、そして言った。
「あなたは探偵《たんてい》ですか?」
マリユスはかなり当惑したがしかし非常に喜んで立ち去った。だいぶ歩を進めたわけである。
「しめた、」と彼は考えた、「ユルスュールという名前であることもわかったし、年金を持ってる者の娘であることもわかったし、あのウエスト街の四階に住んでいることもわかった。」
その翌日、ルブラン氏と娘とは、わずかな間しかリュクサンブールに止まっていなかった。まだ日の高いうちに立ち去ってしまった。マリユスはいつものとおりウエスト街まで彼らのあとについて行った。正門の所へ行くと、ルブラン氏は娘を先に中へ入れて、その門をくぐる前に立ち止まり、ふり返ってマリユスをじっとながめた。
次の日、彼らはリュクサンブールにこなかった。マリユスは一日待ちぼけをくった。
晩になって、彼はウエスト街に行き、四階の窓に燈火《あかり》がさしてるのを見た。彼はその燈火が消えるまで窓の下をうろついた。
その次の日、リュクサンブールへはふたりともこなかった。マリユスは終日待っていて、それからまた窓の下の夜の立ち番をした。それが十時までかかった。夕食は時と場合に任した。熱は病人を養い、恋は恋人を養う。
彼はそういうふうにして一週間を過ごした。ルブラン氏と娘とはもうリュクサンブールに姿を見せなくなった。マリユスは種々悲しい推察をした。昼間正門の所で待ち伏せすることはなしかねた。晩に出かけて行って、窓ガラスにさしてる赤い光をながめることだけで満足した。時とするとその窓に人影がさして、それを見る彼の胸は激しく動悸《どうき》した。
八日目、彼が窓の下にやって行った時、そこには光が見えなかった。彼は言った。「おや、まだランプがついていない。でももう夜だ。どこへか出かけたのかしら。」彼は待ってみた。十時まで、十二時まで、ついに夜中の一時になった。四階の窓には何の光もささず、また家の中にだれもはいってゆく者もなかった。彼はひどく沈みきって立ち去った。
翌日――彼はただ、明日は明日はと暮らしていて、言わば、彼にとっては今日というものはなかったのである――翌日、彼はまたリュクサンブールで彼らのいずれをも見かけなかった。恐れていたとおりだった。薄暗くなってからその家の前へ行った。窓には何の光もなかった。鎧戸《よろいど》がしめてあった。四階はまっ暗だった。
マリユスは正門をたたき、はいって行って、門番に言った。
「四階の人は?」
「引っ越しました。」と門番は答えた。
マリユスはよろめいた。そして弱々しく言った。
「いったいいつですか。」
「昨日です。」
「今どこに住んでいられますか。」
「一向知りません。」
「ではこんどの住所を知らして行かれなかったんですか。」
「そうです。」
そして門番は頭を上げて、マリユスに気づいた。
「やああなたですか。」と彼は言った。「それじゃあなたはやはり警察の方ですね。」
[#改ページ]
第七編 パトロン・ミネット
一 鉱坑と坑夫
人間のあらゆる社会は皆、劇場でいわゆる奈落[#「奈落」に傍点]なるものを有している。社会の地面は至る所発掘されている。あるいは善を掘り出さんがために、あるいは悪を掘り出さんがために。そしてそれらの仕事は互いに積み重なっている。そこには上方の鉱坑もあれば、下方の鉱坑もある。そういう薄暗い地下坑は、時として文明の下に影を没し、また無関心で不注意なるわれわれによって足下に蹂躙《じゅうりん》さるることもあるが、それ自身に上部と下部とをそなえている。十八世紀におけるフランスの百科辞典は、やはりその一つの坑であって、ほとんど地上に現われてるものであった。初代キリスト教をひそかにはぐくんでいたあの暗黒は、やがてローマ皇帝の下に爆発して光明をもって人類を満たさんがためには、ただ一つの機会を要するのみだった。聖なる暗黒のうちには、実に潜在せる光明があったのである。火山が蔵する影のうちには、やがて炎々と輝き出すべき可能性がある。熔岩《ようがん》もすべてその初めは暗黒である。最初の弥撒《ミサ》が唱えられた瑩窟《えいくつ》は、単にローマの一|洞窟《どうくつ》だったのである。
社会の組織の下には、驚くべく複雑な廃墟《はいきょ》が、あらゆる種類の発掘が存している。宗教の坑があり、哲学の坑があり、政治の坑があり、経済の坑があり、革命の坑がある。あるいは思想の鶴嘴《つるはし》、あるいは数字の鶴嘴、あるいは憤怒の鶴嘴。一つの瑩窟《えいくつ》から他の瑩窟へと、人々は呼びかわし答え合う。あらゆる理想郷は、それらの坑によって地下をへめぐる。四方に枝を伸ばしてゆく。あるいは互いに出会って親交を結ぶ。ジャン・ジャック・ルーソーはおのれの鶴嘴をディオゲネスに貸し、ディオゲネスは彼におのれの提灯《ちょうちん》を貸す。あるいはまた互いに争闘する。カルヴィンはソチニの頭髪をつかむ。しかしながら、それらの力が一つの目的に向かって進むのを、何物も止め妨ぐることはできない。暗黒の中を往来し上下して、おもむろに上層と下層とを置き換え外部と内部とを交代せしむる、その広汎《こうはん》なる一斉の活動を、何物も止め妨ぐることはできない。それは隠れたる広大なる蠢動《しゅんどう》である。しかし社会は、表面をそのままにして内臓を変化せしめつつあるその発掘に、ほとんど気づかないでいる。そして地下の層が数多いだけに、その仕事も雑多であり、その採掘も種々である。けれどそれらの深い開鑿《かいさく》からいったい何が出て来るのか。曰《いわ》く、未来が。
地下深く下れば下るほど、その労働者は不可思議なものとなる。社会哲学者らが見て取り得る第一層までは、仕事は善良なものである。しかしその一層を越せば、仕事も曖昧雑駁《あいまいざっぱく》なものとなり、更に下に下れば恐るべきものとなる。ある深さに及べば、もはや文明の精神をもってしては入り得ない坑となる。そこはもはや、人間の呼吸し得べき範囲を越えた所で、それより先に怪物の棲居《すまい》となるべきものである。
下に導く段階はまた不思議なものである。その各段は、哲学の立脚し得る各段であって、そこには、あるいは聖なるあるいは畸形《きけい》なる種々の労働者がひとりずつおる。ヨハン・フスの下にルーテルがおり、ルーテルの下にデカルトがおり、デカルトの下にヴォルテールがおり、ヴォルテールの下にコンドルセーがおり、コンドルセーの下にロベスピエールがおり、ロベスピエールの下にマラーがおり、マラーの下にバブーフがおる。そういうふうにして続いてゆく。更に下の方に、目に見えるものと見えないものとの境界の所には、他のほの暗い人影がおぼろに認められる。それはおそらく、いまだこの世に存しない人々であろう。昨日の人は今は幽鬼であるが、明日の人は今はまだ浮遊のものである。精神の目のみがそれらを漠然《ばくぜん》と認め得るのである。まだ生まれざる未来の仕事は、哲学者の幻像の一つである。
胎児の状態にある陰府《よみ》の中の世界、何という異常な幻であるか!
サン・シモン、オーエン、フーリエなどもまたその側面坑の中におる。
それら地下の開鑿者《かいさくしゃ》らは皆、自ら知らずしてある目に見えない聖なる鎖に結ばれていて、各自孤立していはしないが、多くは常に自ら孤独であると考えている。そして実際、彼らの仕事は種々であり、ある者の光明とある者の炎とが互いに矛盾することもあ
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