た静かな音が聞こえた。ルブラン氏が怒った目つきを自分に向けはすまいかとも想像した。「何か自分に話しかけるだろうか、」とも考えた。彼は頭をたれた。そしてまた頭を上げた時、ふたりはすぐそばにきていた。若い娘は通っていった。通りすがりに彼をながめた。考え込んだようなやさしさで彼をじっとながめた。マリユスは頭から足の爪先までぞっとした。もう長い間一度も彼女の方へ行かなかったことを難じられたような気がし、私の方から参りましたと言われたような気がした。その輝いた深い瞳《ひとみ》の前に、マリユスは眩惑《げんわく》されてしまった。
彼は頭の中が燃えるように感じた。彼女の方から自分の所へきてくれた、何という幸いだろう。そしてまた彼女は、いかにじっと自分を見てくれたろう! 彼女は今まで見たよりも一段と美しく彼には思えた。女性の美と天使の美とをいっしょにした美しさである。ペトラルカをして歌わしめダンテをしてひざまずかしめる美しさである。彼はあたかも青空の中央に漂ってるような思いをした。同時に彼は、自分の靴《くつ》にほこりがついていたので非常に心苦しかった。
彼女はまたこの靴をも見たに違いない、と彼は思った。
彼女の姿が見えなくなるまで、彼はその後ろを見送った。それから気が狂ったようにリュクサンブールの園の中を歩き初めた。時とするとひとりで笑ったり声高に語ったりしがちだった。まったく夢を見ているようで、子もりの女どもまで彼が近づいて来ると、めいめい自分が恋せられてるんだと思ったほどである。
彼は街路でまた彼女に会いはすまいかと思って、リュクサンブールを出た。
彼はオデオンの回廊の下でクールフェーラックに行き会った。「いっしょに食事をしにこいよ、」と彼はクールフェーラックに言った。彼らはルーソーの家に行き、六フラン使い果たした。マリユスは鬼のようによく食べた。給仕にも六スー与えた。食後のお茶の時に、彼はクールフェーラックに言った。「君は新聞を読んだか。オードリ・ド・プュイラヴォーの演説は実にりっぱじゃないか。」
彼はすっかり恋に取っつかれていた。
食事をすますと、彼はクールフェーラックに言った。
「芝居をおごろう。」彼らはポルト・サン・マルタン座へ行って、アドレーの[#「アドレーの」に傍点]旅籠屋《はたごや》でフレデリックの演技を見た。マリユスはすてきにおもしろがった。
同時に彼はまたひどく気が立っていた。芝居から出て、ひとりの小間物屋の女が溝《どぶ》をまたいでその靴下留めが見えたのを、頑固《がんこ》にふり返りもしなかった。「僕はああいう女をも喜んで採集するんだがな[#「僕はああいう女をも喜んで採集するんだがな」に傍点]、」と言ったクールフェーラックの言葉に、彼はほとんど嫌悪《けんお》の念をいだいた。
クールフェーラックは翌日、彼をヴォルテール珈琲《コーヒー》店に招いた。マリユスはそこに行って、前日よりもなおいっそうむさぼり食った。彼はすっかり考え込んでおり、またごく快活だった。機会あるごとにすぐに高笑いをしたがってるかのようだった。ひとりの田舎者《いなかもの》に紹介されるとそれを親しく抱擁した。学生の一団がテーブルのまわりに陣取っていた。国家がわざわざ金を出してソルボンヌ大学で切り売りさしてるばかげた講義のことを論じていたが、次にその談話は、多くの辞書やキシュラの韻律法などにある誤謬《ごびゅう》や欠陥のことに落ちていった。マリユスはその議論をさえぎって叫んだ。「それでも十字勲章をもらうのは悪くないぞ!」
「これはおかしい!」とクールフェーラックはジャン・プルーヴェールに低くささやいた。
「いや、」とジャン・プルーヴェールは答えた、「奴《やつ》はまじめなんだ。」
実際それはまじめだった。マリユスは大なる情熱が起こってこようとする楽しいまた激烈な最初の時期に際会していた。
ただ一度の目つきが、すべてそういう変化をもたらしたのである。
火坑には既に火薬がつめられている時、火災の準備が既にでき上がっている時、それより簡単なことはない。一つの瞥見《べっけん》はすなわち口火である。
事は既に終わった。マリユスはひとりの女に恋した。彼の運命は未知の世界にふみ込まんとしていた。
婦人の一瞥《いちべつ》は、表面穏やかであるが実は恐るべきある種の歯車にも似ている。人は毎日平和に事もなくそのそばを通り過ぎ、何らの懸念も起こさない。ある時は、それが自分のそばにあることさえも忘れてしまっている。行き、きたり、夢想し、語り、笑っている。が突然とらえられたことを感ずる。その時はもはや万事終わりである。歯車は人を巻き込み、瞥見は人を捕える。どこからということなく、またいかにしてということなく、思いめぐらしてる思想の一端からでも、うっかりしてるすき間からでも、人を捕えてしまう。それは身の破滅である。全身引き込まれなければやまない。不可思議な力から鷲《わし》づかみにされる。身をもがいてもむだである。人間の力ではいかんともすることはできない。精神も幸福も未来も魂もすべてが、車の歯から歯へ、苦悶《くもん》から苦悶へ、懊悩《おうのう》から懊悩へと、陥ってゆく。そしてあるいは悪い女の力に支配されるか、あるいは気高い心の婦人に支配されるかに従って、人がその恐るべき機械から出て来る時には、あるいは汚辱によって面目を失っているか、あるいは情熱によって面目を一新しているかだけである。
七 推察のままに任せらるるU文字の事件
孤立、すべてからの分離、矜持《きょうじ》、独立、自然に対する趣味、日々の物質的活動の欠除、自分のうちに引きこもった生活、貞節な心のひそかな争闘、万物に対するやさしい恍惚《こうこつ》、などはついにマリユスをして情熱と呼ばるるところのものにとらえらるる素地をこしらえていた。父に対する崇拝の念はしだいに一つの信仰となり、あらゆる信仰と同じくそれも心の奥に引っ込んでしまっていた。そして今第一の正面に何物かが必要となっていた。そこに恋がきたのである。
まる一月はかくて過ぎた。その間マリユスは毎日リュクサンブールの園に行った。その時間が来れば何物も彼を引き止めることはできなかった。「あいつは勤務中だ、」とクールフェーラックは言った。マリユスは歓喜のうちに日を過ごしていた。若い娘も彼の方に目をつけてることは確かだった。
彼はついに大胆になって、あのベンチに近寄っていった。けれどももうその前を通ることをしなかった。一つは臆病《おくびょう》な本能からと、また一つには恋する者の注意深い本能からだった。「父親の注意」をひかない方がいい、と彼は思っていた。彼は深いマキアヴェリ式の権謀を用いて、彫像の台石や樹木の後ろに自分の地位を選び、そしてできるだけよく娘の方から見えるようにし、できるだけ老紳士の方からは見えないようにした。時とすると半時間も、レオニダスかスパルタクスか何かの像の陰にじっとたたずんで、手に書物を持ち、その書物から静かに目を上げて、美しい娘の方を見ようとすることもあった。すると彼女の方でもぼんやりした微笑を浮かべて、彼の方へかわいい横顔を向けた。白髪の老人とごく自然にまた静かに話をしながら、彼女はその処女らしいまた熱情のあふれた夢見るような目を、マリユスの上に据えるのだった。世界の最初の日からイヴが知っていた、また人生の最初からすべての女が知っている、古い太古からのやり方である。彼女の口はひとりの方へ返事をし、彼女の目つきはもひとりの方へ返事をしていた。
けれども、ルブラン氏の方でもついに何事かに気づいたことは想像される。なぜなら、マリユスがやってゆくと、しばしば彼は立ち上がって歩き出した。彼はよくいつもの場所を離れ、道の他の端にあるグラディアトゥールの像のそばのベンチに腰掛け、あたかもそこまでマリユスがついて来るかを見ようとするがようだった。マリユスはその訳を了解せず、その失策をやってしまった。「父親」はしだいに不正確になり、もう毎日は「自分の娘」を連れてこなかった。時とするとひとりでやってきた。するとマリユスはそこに止まっていなかった。それがまたも一つの失策だった。
マリユスはそういう徴候には少しも気を留めなかった。臆病な状態から、避くるを得ない自然の順序として、盲目の状態に陥っていった。彼の恋は募ってきた。毎夜その夢を見た。その上意外な幸福がやってきた。それは火に油を注ぐようなもので、また彼の目をいっそう盲目ならしむるものだった。ある日の午後、たそがれ頃に、「ルブラン氏とその娘」とが立ち去ったベンチの上に、彼は一つのハンカチを見いだした。刺繍《ししゅう》もないごくあっさりしたハンカチだったが、しかしまっ白で清らかで、言うべからざるかおりが発してるように思えた。彼は狂喜してそれを拾い取った。ハンカチにはU・Fという二字がついていた。マリユスはその美しい娘については何にも知るところがなかった、その家がらも名前も住所も知らなかった。そしてその二字は彼女についてつかみ得た最初のものだった。大事な頭文字で、彼はすぐその上に楼閣を築きはじめた。Uというのはきっと呼び名に違いなかった。彼は考えた、「ユルスュールかな、何といういい名だろう!」彼はそのハンカチに脣《くちびる》をつけ、それをかぎ、昼は胸の肌《はだ》につけ、夜は脣にあてて眠った。
「彼女の魂をこの中に感ずる!」と彼は叫んだ。
しかるにそのハンカチは実は老紳士ので、たまたまポケットから落としたのだった。
その拾い物の後はいつも、マリユスはそれに脣をつけ、それを胸に押しあてながら、リュクサンブールに姿を現わした。美しい娘はその訳がわからず、ひそかな身振りでそのことを彼に伝えた。
「何という貞節さだろう!」とマリエスは言った。
八 老廃兵といえども幸福たり得る
われわれは貞節[#「貞節」に傍点]という語を発したことであるし、また何事をも隠さないつもりであるから、「彼のユルスュール」は恍惚《こうこつ》のうちにあるマリユスにきわめてまじめな苦しみを与えたことが一度あるのを、ここに述べなければならない。それは彼女が、ルブラン氏を促してベンチを去り道を逍遙《しょうよう》した幾日かのうちの、ある日のことだった。晩春の強い風が吹いて篠懸《すずかけ》の木の梢《こずえ》を揺すっていた。父と娘とは互いに腕を組み合わして、マリユスのベンチの前を通り過ぎた。マリユスはそのあとに立ち上がり、その後ろ姿を見送った。彼の心は狂わんばかりで、自然にそういう態度をしたらしかった。
何物よりも最も快活で、おそらく春の悪戯《いたずら》を役目としているらしい一陣の風が、突然吹いてきて、苗木栽培地《ペピニエール》から巻き上がり、道の上に吹きおろして、ヴィルギリウスの歌う泉の神やテオクリトスの歌う野の神にもふさわしいみごとな渦巻きの中に娘を包み込み、イシスの神の長衣よりいっそう神聖な彼女の長衣を巻き上げ、ほとんど靴下留《くつしたど》めの所までまくってしまった。何とも言えない美妙なかっこうの片脛《かたはぎ》が見えた。マリユスもそれを見た。彼は憤慨し立腹した。
娘はひどく当惑した様子で急いで長衣を引き下げた。それでも彼の憤りは止まなかった。――その道には彼のほかだれもいなかったのは事実である。しかしいつもだれもいないとは限らない。もしだれかいたら! あんなことが考えられようか。彼女が今したようなことは思ってもいやなことである。――ああしかし、それも彼女の知ったことではない。罪あるのはただ一つ、風ばかりだ。けれども、シェリュバンの中にあるバルトロ的気質が([#ここから割り注]訳者注 フィガロの結婚中の人物で、前者は女に初心な謹厳な少年、後者は嫉妬深い後見人[#ここで割り注終わり])ぼんやり動きかけていたマリユスは、どうしても不満ならざるを得ないで、彼女の影に対してまで嫉妬《しっと》を起こしていた。肉体に関する激しい異様な嫉妬の念が人の心のうちに目ざめ、不法にもひどく働きかけてくるのは、皆そういうふうに
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