ヨい》は凶賊カルトゥーシュが誠直だと言ってほめられたような満足の渋面をした。
 そういう対話が行なわれた日の夕方、マリユスは監視されてることに気もつかずに、駅馬車に乗った。監視人の方では、第一にまず眠ってしまった。それは他意ない眠りだった。アルゴス([#ここから割り注]訳者注 百の目をそなえ五十の目ずつ交代に眠るという怪物[#ここで割り注終わり])は終夜|鼾《いびき》をかいて眠ってしまったのである。
 夜明けに御者は叫んだ。「ヴェルノン、ヴェルノン宿《しゅく》、ヴェルノンで降りる方!」そして中尉のテオデュールは目をさました。
「そうだ、」と彼はまだ半ば夢の中にあってつぶやいた、「ここで降りるんだった。」
 それから、目がさめるにつれて記憶がしだいに明らかになってゆき、伯母《おば》のこと、ルイ金貨十個のこと、マリユスの挙動を知らせると約束したことなどを、彼は思い出した。そしてひとりで笑い出した。
「もう馬車にいはすまい。」と彼はふだんの軍服の上衣のボタンをかけながら考えた。「ポアシーに止まったかも知れない。トリエルに止まったかも知れない。それとも、ムーランで降りなかったらマントかな。あるいはロルボアーズで降りたかな。またはパッシーまできたかな。そして左へ曲がってエヴルーの方へ行ったか、右へ曲がってラローシュ・ギーヨンの方へ行ったかな。追っかけようたってだめだし、お人よしの伯母へは、さて何と書いてやったものだろう。」
 その時上部の室から降りる黒いズボンが、前部の室《へや》のガラス戸から見えた。
「マリユスかしら?」と中尉は言った。
 それはマリユスだった。
 馬車の下には、馬や御者などの間に交じって、小さな田舎娘《いなかむすめ》が旅客に花を売っていた。「おみやげの花はいかが、」と彼女は呼んでいた。
 マリユスはそれに近寄って、平籠《ひらかご》の中の一番美しい花を買った。
「なるほど、」と前の部屋《へや》から飛び降りながらテオデュールは言った、「これはおもしろくなってきた。どんな女にあの花を持ってってやるのかな。あんなきれいな花を持ってゆくくらいだから、よほどの別嬪《べっぴん》に違いない。ひとつ見てやろう。」
 そしてもう今度は、言いつかったためではなく、自分の好奇心からして、あたかも自ら好きで狩りをする犬のように、彼はマリユスのあとをつけはじめた。
 マリユスはテオデュールに何らの注意も払わなかった。りっぱな女たちが駅馬車から降りてきたが、彼はその方にも目を注がなかった。彼は周囲のこと何一つ目にはいらないようだった。
「よほど夢中になってるな。」とテオデュールは考えた。
 マリユスは教会堂の方へ向かって行った。
「すてきだ。」とテオデュールは自ら言った。「会堂だな。弥撒《ミサ》でちょっと味をつけた媾曳《あいびき》はいいからな。神様の頭越しに横目とはしゃれてるからな。」
 教会堂まで行くと、マリユスはその中にはいらないで、裏手の方へ回っていった。そして奥殿の控壁の角《かど》に見えなくなった。
「外で会うんだな。」とテオデュールは言った。「ひとつ女を見てやるかな。」
 そして彼は靴《くつ》の爪先《つまさき》で立って、マリユスが曲がった角の方へ進んで行った。
 そこまで行くと、彼は呆然《ぼうぜん》と立ち止まった。
 マリユスは額を両手の中に伏せて、一つの墓の叢《くさむら》の中にひざまずいていた。花はそこに手向《たむ》けられていた。墓の一端に、その頭部のしるしたる小高い所に、黒い木の十字架が立っていて、白い文字がしるしてあった、「陸軍大佐男爵ポンメルシー。」マリユスのむせび泣く声が聞こえた。
 女とは一基の墓だったのである。

     八 花崗岩と大理石

 マリユスが初めてパリーを去って旅したのは、そこへであった。ジルノルマン氏が「家をあけるんだな。」と言ったたびごとに彼が立ち戻ったのは、そこへであった。
 中尉テオデュールは、意外にも墳墓に出くわしてまったく唖然《あぜん》とした。墳墓に対する敬意と大佐に対する敬意との交じった、自ら解き得ない一種の不思議な不安な感情を覚えた。そしてマリユスをひとり墓地に残して退いた。その退却には規律があった。死者は大きな肩章をつけて彼に現われ、彼はそれに対して挙手の礼をしようとまでした。伯母《おば》に何と書いてやっていいかわからないので、結局何にも書いてやらないことにした。そしてそのままでは、マリユスの恋愛事件についてテオデュールがなした発見からは、おそらく何らの結果も起こらなかったであろうが、しかし偶然のうちにしばしばある不思議な天の配剤によって、ヴェルノンのそのできごとの後間もなく、パリーで一つの事件がもち上がった。
 マリユスは三日目の朝早くヴェルノンから帰ってきて、祖父の家に着いた。そして駅馬車の中で二晩過ごしたためにすっかり疲れていて、水泳場に一時間ばかり行って不眠を補いたくなったので、急いで自分の室《へや》に上がって行き、旅行用のフロックと首にかけていた黒い紐《ひも》とを脱ぐが早いか、すぐに水泳場へ出かけて行った。
 ジルノルマン氏は健康な老人の例にもれず朝早くから起きていて、マリユスが帰ってきた音をきいた。それで老年の足の及ぶ限り大急ぎで、マリユスの室《へや》がある上の階段を上がっていった。そしてマリユスを抱擁し、抱擁のうちに種々尋ねてみて、どこから帰ってきたかを少し知ろうと思った。
 しかし八十以上の老人が上がって来るのよりも、青年が下りてゆく方が早かった。ジルノルマン老人が屋根部屋《やねべや》にはいってきた時には、マリユスはもうそこにいなかった。
 寝床はそのままになっており、その上には何の気もなしに、フロックと黒い紐《ひも》とが散らかしてあった。
「この方がよい。」とジルノルマン氏は言った。
 そして間もなく彼は客間にはいってきた。そこには既に姉のジルノルマン嬢が席についていて、例の車の輪を刺繍《ししゅう》していた。
 ジルノルマン氏は得意げにはいってきたのである。
 彼は片手にフロックを持ち、片手に首のリボンを持っていた。そして叫んだ。
「うまくいった。これで秘密が探れる。底の底までわかる。悪戯者《いたずらもの》の放蕩《ほうとう》に手をつけることができる。種本を手に入れたようなものだ。写真もある。」
 実際、メダルに似寄った黒い粒革《つぶかわ》の小箱がリボンに下がっていた。
 老人はその小箱を手に取って、しばらく開きもしないでじっとながめた。あたかも食に飢えた乞食《こじき》が自分のでないりっぱなごちそうが鼻の先にぶら下がってるのをながめるような、欲望と喜悦と憤怒との交じってる様子だった。
「これは確かに写真だ。こんなことを私《わし》はよく知っている。胸にやさしくつけてるものだ。実にばかげた者どもだ。見るもぞっとするような恐ろしい下等な女に違いない。近ごろの若い者はまったく趣味が堕落してるからね。」
「まあ見ようではありませんか、お父さん。」と老嬢は言った。
 ばねを押すと小箱は開いた。中にはただ、ていねいに畳んだ一片の紙があるのみだった。
「同じことは一つことだ。」と言ってジルノルマン氏は笑い出した。「これもわかってる。艶文《いろぶみ》というやつだ。」
「さあ読んでみましょう。」と伯母《おば》は言った。
 そして彼女は眼鏡《めがね》をかけた。ふたりはその紙を開いて、次のようなことを読んだ。

[#ここから2字下げ]
予が子のために[#「予が子のために」に傍点]――皇帝はワーテルローの戦場にて予を男爵に叙しぬ。復古政府は血をもって購《あがな》いたるこの爵位を予に否認すれども、予が子はこれを取りこれを用うべし。もとより予が子はそれに価するなるべし。
[#ここで字下げ終わり]

 父と娘とが受けた感情は、とうてい言葉には尽し難い。彼らは死人の頭から立ち上る息吹《いぶき》で凍らされでもしたように感じた。互いに一言もかわさなかった。ただジルノルマン氏は自分自身に話しかけるように低い声で言った。
「あのサーベル奴《め》の字だ。」
 伯母はその紙を調べ、種々ひっくり返してみ、それから小箱の中にしまった。
 同時に、青い紙にくるんだ小さな長方形の包みが、フロックのポケットから落ちた。ジルノルマン嬢はそれを拾い上げて、青い紙を開いてみた。それはマリユスの百枚の名刺だった。彼女はその一枚をジルノルマン氏に差し出した。彼は読んだ、「男爵マリユス[#「男爵マリユス」に傍点]・ポンメルシー[#「ポンメルシー」に傍点]。」
 老人は呼び鈴を鳴らした。ニコレットがやってきた。ジルノルマン氏はリボンと小箱とフロックとを取り、それらを室《へや》のまんなかに、床《ゆか》にたたきつけた。そして言った。
「そのぼろ屑《くず》を持ってゆけ。」
 一時間ばかりの間はまったく深い沈黙のうちに過ごされた。老人と老嬢とは互いに背中合わせにすわり込み、各自に、そしてたぶんは同じことを、思いめぐらしていた。終わりにジルノルマン伯母《おば》は言った。

「よいざまだ!」
 やがてマリユスが現われた。戻ってきたのである。そして室の閾《しきい》をまたがないうちに、祖父が自分の名刺を一枚手に持ってるのを見た。祖父は彼の姿を見るや、何かしらてきびしい市民的な冷笑的な高圧さで叫んだ。
「これ、これ、これ、これ、お前は今は男爵だな。お祝いを言ってあげよう。いったい何という訳だ?」
 マリユスは少し顔を赤らめて答えた。
「私は父の子だという訳です。」
 ジルノルマン氏は冷笑をやめて、きびしく言った。
「お前の父というのは、私だ。」
「私の父は、」とマリユスは目を伏せ厳格な様子をして言った、「謙遜なそして勇壮な人でした。共和とフランスとにりっぱに仕えました。人間がかつて作った最も偉大な歴史の中の偉人でした。二十五年余りの間露営のうちに暮らしました、昼は砲弾と銃火の下に、夜は雪の中に、泥にまみれ、雨に打たれて暮らしました。軍旗を二つ奪いました。二十余の傷を受けました。そして忘れられ捨てられて死にました。しかもその誤ちと言ってはただ、自分の国と私と、ふたりの忘恩者をあまりに愛しすぎたということばかりでした。」
 それはジルノルマン氏の聞くにたえないことだった。共和[#「共和」に傍点]という言葉で彼は立ち上がった、否なおよく言えばつっ立った。そしてマリユスの発する一語一語に、鉄工場の※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》の息を炭火の上に吹きかけるようなさまが、その王党の老人の顔に現われた。彼の顔色は薄墨色から赤となり、赤から真紅となり、真紅から炎の色と変じた。
「マリユス!」と彼は叫んだ、「言語道断な奴だ! お前の親父《おやじ》がどんな男だったか、そんなことは私《わし》は知らん。知ろうとも思わん。いっさい知らん、顔も知らん。ただ私が知ってるのは、奴らが皆悪党だったことだけだ。人非人、人殺し、赤帽子、盗人、だけだったことだ。皆そうだ。皆そうだ。私はだれも知らん。皆いっしょにして言うんだ。わかったか、マリユス! お前が男爵だって! ロベスピエールに仕えた奴らは皆山賊だ。ブ…オ…ナ…パルテに仕えた奴らは皆無頼漢だ。正当な国王に背《そむ》き、背き、背いた奴らは皆|謀反人《むほんにん》だ。ワーテルローでプロシア人とイギリス人との前から逃げ出した奴らは皆|卑怯者《ひきょうもの》だ。私が知ってるのはそれだけのことだ。お前の親父さんもその中にいたかどうか、私は知らん。はなはだ気の毒の至りだ。」
 こんどはマリユスが炭火で、ジルノルマン氏が※[#「韋+鞴のつくり」、第3水準1−93−84]となった。マリユスは手足を震わし、どうなるかを知らず、頭は燃えるようだった。彼は聖餐《せいさん》が風に投げ散らされるのを見る牧師のようであり、偶像の上に通行人が唾《つば》してゆくのを見る道士のようだった。そういうことが自分の前で臆面《おくめん》もなく言われるのは許すべからざることのように思われた。しかしどうしたらいいか。父は自分の面前で足下に踏みつ
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