Aその思想に対する心酔と頭の中でからみ合った。彼は自ら気づかずして、天才とともにそして天才と一体になって、力を賛美した。言い換えれば、彼は自ら知らずして、偶像崇拝の二つの室《へや》の中に身を置いた、一方は神性なるもの、一方は獣性なるもの。多くの点について、彼はなお誤った方向をたどっていた。彼はすべてを承認した。人は真理の方へ進みながら途中|誤謬《ごびゅう》に出会うことがある。彼は一種の熱烈な誠意を持っていて、すべてを一塊《ひとかたまり》にしてのみ込んだ。新たにはいった道理において、あたかもナポレオンの光栄を測るがように旧制の誤謬を判別しながら、酌量すべき事情をすべて閑却して顧みなかった。
それにしても、驚くべき一歩はふみ出されたのである。昔王政の墜落を見たところに、今はフランスの高揚を見た。彼の方向は変わっていた。昔、西であったものは、今は東になっていた。彼は向きを変えていた。
すべてそれらの革新は、家の人々が気づかぬ間に彼のうちに成し遂げられた。
そのひそかな仕事のうちに、ブールボン派であり過激王党派だった古い外皮をまったく捨ててしまった時、貴族派、一性論派、王党派、の衣を脱した時、革命派となり、深き民主派となり、ほとんど共和派となった時、その時彼はオルフェーヴル川岸のある印刷屋に行って、男爵マリユス[#「男爵マリユス」に傍点]・ポンメルシー[#「ポンメルシー」に傍点]という名前の名刺を百枚注文した。
それは彼のうちに起こった変化の、父を中心としてすべてが引き寄せられるに至った変化の、きわめて当然な結果の一つにすぎなかった。ただ彼はひとりも知己を持たず、どの門番の家へもその名刺をふりまくことができなかったので、それをポケットの中に蔵《しま》い込んだ。
またも一つの自然な結果として、彼は父に近づくに従って、父の記憶に近づくに従って、大佐が二十五年間奮闘してきた事物に近づくに従って、祖父から遠ざかるに至った。前に言ったとおり、ジルノルマン氏のむら気は既に長い前から彼の好むところでなかった。既に彼らの間には、軽佻《けいちょう》なる老人に対する沈重なる青年のあらゆる不調和が存していた。ジェロントの快活はウェルテルの憂鬱《ゆううつ》を憤らせいら立たせるものである。同じ政治的意見と同じ思想とがふたりに共通である間は、それを橋としてマリユスはジルノルマン氏と顔を合わしていた。しかし一度その橋が落つるや、ふたりの間には深淵《しんえん》が生じた。それからまた特に、愚かな動機によって彼を無慈悲にも大佐から引き離し、かくて父から子供を奪い子供から父を奪ったのは、実にジルノルマン氏であったことを思うと、マリユスは言うべからざる反撥《はんぱつ》の情を覚えた。
父に対する愛慕のために、マリユスはほとんど祖父を嫌悪《けんお》するに至った。
けれどもそれらのことは、前に言ったとおり、外部には少しも現われなかった。ただ彼はますます冷淡になって、食事も簡単にすまし、家にいることも少なくなった。伯母《おば》がそれについて小言《こごと》を言った時、彼はごくおとなしくしていて、その口実に、勉強だの学校の講義だの試験だの講演会だの種々なことを持ち出した。祖父の方はその一徹な見立てを少しも変えなかった。「女のことだ。よくわかってる。」
マリユスは時々家をあけた。
「あんなにしてどこへ行くのでしょう。」と伯母は尋ねた。
その不在はいつもごくわずかな時日だったが、そのうちに彼はある時、父が残したいいつけを守らんために、モンフェルメイュに行って、昔のワーテルローの軍曹《ぐんそう》である旅亭主テナルディエをさがした。しかしテナルディエは破産して、宿屋は閉ざされ、どうなったか知ってる者はいなかった。その探索のために、マリユスは四日間家をあけた。
「確かにこれは調子が狂ってきたんだな。」と祖父は言った。
彼がシャツの下に何かを黒いリボンで首から胸にかけてるのを、ふたりは見たようにも思った。
七 ある艶種《つやだね》
ひとりの槍騎兵《そうきへい》のことを前にちょっと述べておいた。
それはジルノルマン氏の父方《ちちかた》の系統で、甥《おい》の子に当たり、一族の外にあって、いずれの家庭からも遠く離れ、兵営の生活を送っていた。そのテオデュール・ジルノルマン中尉は、いわゆるきれいな将校たるすべての条件をそなえていた。「女のような身体つき」をし、揚々たる態度でサーベルを引きずり、髭《ひげ》を上に巻き上げていた。時にパリーに来ることがあったが、それもごくまれで、マリユスはかつて会ったことがないくらいだった。ふたりの従兄弟《いとこ》は互いに名前だけしか知ってはいなかった。前に言ったと思うが、テオデュールはジルノルマン伯母《おば》の気に入りだった。そしてそれも、常に顔を合わしていないからに過ぎなかった。常に会っていないといろいろよく思われるものである。
ある日の朝姉のジルノルマン嬢は、その平静さのうちにもさすがに興奮して、自分の室《へや》に戻ってきた。マリユスがまた祖父に向かって、ちょっと旅をしたいと申し出たのである。しかもすぐその晩にたちたいと言った。「行っておいで、」と祖父は答えた。そしてジルノルマン氏は額の上まで両の眉《まゆ》を上げながら、ひとりして言った、「また家をあけるんだな。」それでジルノルマン嬢は非常に心痛して自分の室に上ってゆきながら階段の所で、「あまりひどい!」と憤慨の言葉をもらし、「だがいったいどこへ行くんだろう?」と疑問の言葉をもらした。何か道ならぬ艶事《つやごと》、ある影の中の女、ある媾曳《あいびき》、ある秘密、そういうことに違いないと彼女は思い、少しばかり探ってみるのも当然だと考えた。秘密を探って味わうことは、悪事を最初にかぎ出すのと同じ趣味で、聖《きよ》い心の者もそれに不快を覚えないものである。熱心な信仰の人の心のうちにも、汚れたる行ないに対する好奇心があるものである。
それで彼女は、事情を知りたいという漠然《ばくぜん》とした欲望にとらわれた。
平素の落ち着きにもかかわらず、多少不安なその好奇心をまぎらすために、彼女は自分の技芸のうちに逃げ込んで刺繍《ししゅう》を初めた。それは車の輪がたくさんにある帝政および復古時代の刺繍の一つで、綿布の上に綿糸でなすのだった。退屈な仕事に頑固《がんこ》な女工という形である。そうして彼女は幾時間もの間|椅子《いす》にすわりきりでいた。すると扉《とびら》が開いた。ジルノルマン嬢は顔を上げた。中尉のテオデュールが前に立っていて、軍隊式の礼をしていた。彼女は喜びの声を上げた。お婆さんであり、似而非貞女《えせていじょ》であり、信者であり、伯母《おば》であっても、自分の室《へや》に一人の槍騎兵《そうきへい》がはいって来るのを見ては、うれしからざるを得ないわけである。
「まあ、テオデュール!」と彼女は叫んだ。
「ちょっと通りかかりましたので。」
「まあ初めに……。」
「ええ今!」とテオデュールは言った。
そして彼は伯母を抱擁した。ジルノルマン伯母は机の所へ行って、その抽出《ひきだ》しをあけた。
「少なくも一週間くらいは泊まってゆくんでしょうね。」
「いえ、今晩帰ります。」
「そんなことがお前!」
「でもそうなんです。」
「でもテオデュールや、泊まっていっておくれ、お願いだから。」
「私の心ははいと言いますが、命令がいえと言います。ごく簡単な事情です。私どもの兵営が変わって、今までムロンだったのが、ガイヨンになったんです。で元の営所からこんどの営所へ行くには、パリーを通らなければなりません。それで私は、ちょっと伯母《おば》さんに会って来ると言ってやってきました。」
「そしてこれはその骨折りのためにね。」
彼女はルイ金貨を十個彼の手に握らした。
「いえお目にかかる私の喜びのためにと言って下さい、伯母さん。」
テオデュールは彼女をまた抱擁した。その時、軍服の金モールのために首筋がちょっとすりむけたのを、彼女はかえってうれしく感じた。
「でお前は連隊について馬で行くんですか。」
「いいえ伯母さん。あなたにお目にかかりたかったんです。それで特別の許可を受けてきました。従卒が馬をひいていってくれますから、私は駅馬車で行きます。それについて、少しお尋ねしたいことがありますが。」
「何ですか。」
「従弟《いとこ》のマリユス・ポンメルシーも旅行するんですか。」
「どうしてそれを知っています?」と伯母はにわかに強い好奇心にそそられて言った。
「こちらへ着いてから、前部の席を約束しておこうと思って馬車屋へ行きました。」
「すると?」
「するとひとりの客が上部の席を約束していました。私はその名札を見ました。」
「何という名でした。」
「マリユス・ポンメルシーというんです。」
「まあ何ということでしょう。」と伯母《おば》は叫んだ。「お前の従弟《いとこ》はお前のようにちゃんとした子ではないんですよ。駅馬車の中で夜を明かそうなんて。」
「私と同じようにですね。」
「いえお前の方は義務ですからね。あれのは無茶なんです。」
「おやおや!」とテオデュールは言った。
そこで姉のジルノルマン嬢に一事件が起こった。ある考案が浮かんだのである。もし男だったら額をたたくところだった。彼女はテオデュールに尋ねはじめた。
「お前の従弟はお前を知ってるでしょうか。」
「いいえ。私の方は従弟を見たことがあります、けれど向こうでは一度も私に目を向けたことはありません。」
「でお前さんたちはちょうどいっしょに旅するわけですね。」
「ええ、彼は上部の席で、私は前部の席で。」
「その駅馬車はどこへ行くんです。」
「アンドリーへです。」
「ではマリユスはそこへ行くんでしょうね。」
「ええ、私のように途中で降りさえしなければ。私はガイヨンの方へ乗り換えるためにヴェルノンで降ります。私はマリユスがどの方へ行くつもりかは少しも知りません。」
「マリユスって、まあ何て賤《いや》しい名でしょうね。どうしてマリユスなんていう名をつけたんでしょう。だけどお前の方はまあ、テオデュールというんですからね。」
「でもアルフレッドという方が私は好きです。」と将校は言った。
「まあ聞いておくれよ、テオデュール。」
「聞いていますよ、伯母《おば》さん。」
「気をつけてですよ。」
「気をつけていますよ。」
「いいですかね。」
「はい。」
「ところで、マリユスはよく家をあけるんですよ。」
「へえー。」
「旅をするんですよ。」
「ははあ。」
「泊まってくるんですよ。」
「ほほう。」
「どうしたわけか知りたいんですがね。」
テオデュールは青銅で固めた人のように落ち着き払って答えた。
「何か艶種《つやだね》でしょう。」
そしてまちがいないというような薄ら笑いをして、彼は言い添えた。
「女ですよ。」
「そうに違いない。」と伯母《おば》は叫んだ。彼女はジルノルマン氏の言葉を聞いたような気がし、大伯父《おおおじ》と甥《おい》の子とからほとんど同じように力をこめて言われた女という言葉によって、自分の思っていたところも確かなものとなったように感じた。彼女は言った。
「私たちの頼みをきいておくれよ。マリユスのあとを少しつけておくれよ。向こうではお前を知らないから、わけはないでしょう。女がいるとすれば、それも見届けるようにね。そして始終のことを知らしておくれ。お祖父《じい》さんも喜ばれるでしょうから。」
テオデュールはそんな探索の役目にあまり趣味を持たなかった。しかし彼はルイ金貨十個にひどく心を打たれていたし、も一度もらえるかも知れないと思った。でその仕事を引き受けて言った、「承知しました、伯母さん。」そして彼は一人でつけ加えた、「監督になったわけだな。」
ジルノルマン嬢は彼を抱擁した。
「テオデュールや、お前はそんな悪戯《いたずら》はしないでしょうね。お前はただ規律に従い、命令を守り、義務を果たす謹直な人で、家をすてて女に会いに行くなどということはないでしょうね。」
槍騎兵《そうき
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