驍烽フである。ニコレットは祖父の命令によって、大急ぎでマリユスの「ぼろ屑《くず》」をその室《へや》に持ってゆきながら、自分でも気づかずに、たぶん薄暗い上の階段にでもあろうが、大佐の書いた紙片がはいっている黒い粒革《つぶかわ》の箱を落とした。そしてその紙も箱も見つからなかった。きっと「ジルノルマン氏」が――その日以来もうマリユスは祖父のことをそういうふうにしか決して呼ばなかった――「父の遺言」を火中に投じたものと、マリユスは思い込んだ。彼は大佐が書いたその数行を暗記していたので、結局何らの損害をも受けはしなかった。しかしその紙、その筆蹟、その神聖な形見、それは実に彼の心だったのである。それがどうされたのであるか?
マリユスはどこへ行くとも言わず、またどこへ行くつもりか自分でも知らず、三十フランの金と、自分の時計と、旅行鞄《りょこうかばん》に入れた二、三枚の衣服とを持って、家を出て行った。そして辻馬車《つじばしゃ》に飛び乗り、時間借りにして、ラタン街区の方へあてもなく進ました。
マリユスはどうなりゆくであろうか?
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第四編 ABCの友
一 歴史的たらんとせし一団
外見は冷静であったがこの時代には、一種の革命的な戦慄《せんりつ》が漠然《ばくぜん》と行き渡っていた。一七八九年および一七九二年の深淵《しんえん》から起こった息吹《いぶき》は、空気の中に漂っていた。こういう言葉を用いるのが許されるならば、青年は声変わりの時期にあったのである。人々はほとんど自ら知らずして、当時の機運につれて変化しつつあった。羅針盤《らしんばん》の面《おもて》を回る針は、同じく人の心の中をも回っていた。各人はその取るべき歩みを前方に進めていった。王党は自由主義者となり、自由主義者は民主主義者となっていた。
それは多くの引き潮を交錯した一つの上げ潮のごときものであった。引き潮の特性は混和をきたすものである。そのためにきわめて不可思議な思想の結合を生じた。人々は同時にナポレオンと自由とを崇拝した。われわれは今ここに物語の筆を進めているが、この物語は実に当時の映像なのである。当時の人々の意見は多様な面を通過していた。ヴォルテール的勤王主義はずいぶんおかしなものであるが、ボナパルト的自由主義も同じく不可思議なもので、まったく好一対であった。
その他の精神的団体には、いっそうまじめなものがあった。それらの人々は原則を探究し、権利に愛着していた。絶対なるものに熱狂し、無限の実現をのぞき見ていた。絶対なるものはその厳酷さによって、人の精神を蒼空《そうくう》に向かわしめ、無限なるもののうちに浮動せしむる。夢想を生むには、独断に如《し》くものはない。そして未来を生み出すには、夢想に如《し》くものはない。今日の空想郷も、明日はやがて肉と骨とをそなうるに至るであろう。
進んだ思想は二重の基調を持っていた。秘奥が見えそめて来ると、疑わしい狡猾《こうかつ》な「打ち建てられたる秩序」は脅かされるに至った。それは最高の革命的徴候である。権力の下心は対濠《たいごう》のうちにおいて民衆の下心と相見《あいまみ》ゆる。暴動の孵化《ふか》はクーデターの予謀に策応する。
当時フランスには、ドイツのツーゲンドブンドやイタリーのカルボナリのごとき、広汎《こうはん》な下層の結社組織はまだ存していなかった。しかし所々に、秘密な開発が行なわれ、枝をひろげつつあった。クーグールド結社はエークスにできかかっていた。またパリーにはこの種の同盟が多くあったが、なかんずくABCの友なる結社があった。
ABCの友とは何であったか? 外見は子供の教育を目的としていたものであるが、実際は人間の擡頭《たいとう》を目的としていたものである。
彼らは自らABCの友と宣言していた。ABC《アーベーセー》とは、〔|Abaisse'〕《アベッセ》 にして、民衆の意であった([#ここから割り注]訳者注 両者の音が共通なるを取ったもので、アベッセは抑圧されたるものという意[#ここで割り注終わり])。彼らは民衆を引き上げようと欲していた。駄洒落《だじゃれ》だと笑うのはまちがいである。駄洒落はしばしば政治において重大なものとなることがある。その例、ナルセスを一軍の指揮官たらしめたカストラトスはカストラへ[#「カストラトスはカストラへ」に傍点](去勢者は陣営へ)。その例、バルバリとバルベリニ[#「バルバリとバルベリニ」に傍点](野蛮とバルベリニ)。その例、フエロスとフエゴス[#「フエロスとフエゴス」に傍点](法典とフエゴス)。その例、汝はペトロスなり[#「汝はペトロスなり」に傍点]、我このペトラムの上に[#「我このペトラムの上に」に傍点](汝はペテロなり、我この石の上に我が教会を建てん)。
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