闥刻Iわり])。下女の方は皆ニコレットという名前をもらっていた。(後に出てくるマニョンという女もそうであった。)ある日、門番に見るような背《せ》の高いつんとしたすてきな料理女が彼の家にやってきた。ジルノルマン氏は尋ねた。「給金は月にいくらほしいんだ。」「三十フランです。」「何という名前だ。」「オランピーと申します。」「よろしい五十フランあげよう、そしてニコレットという名前にしたがいい。」
六 マニョンとそのふたりの子供
ジルノルマン氏においては、心痛は憤怒となって現われた。彼は絶望すると狂猛になった。彼はあらゆる偏見を持っていて、あらゆるわがままを行なった。彼の外部の特徴を形造っていたものの一つで、また彼の内心の満足であったところのものは、前に指摘しておいたとおり、老いても血気盛んだということで、是非ともそういうふうに装うということだった。彼はそれを「りっぱな評判」を得ることと称していた。りっぱな評判は彼に時とすると、不思議な意外な獲物をもたらすことがあった。ある日、相当な産着《うぶぎ》にくるまれ泣き叫んでる生まれたばかりの大きな男の児が牡蠣籠《かきかご》みたいな籠の中に入れられて、彼の家に持ち込まれた。六カ月前に追い出されたひとりの下女が、その赤ん坊は彼の児だと言ったのである。ジルノルマン氏はその時ちょうど八十四歳いっぱいになっていた。まわりの者は大変に腹を立てわき返るような騒ぎをした。恥知らずの売女《ばいた》めが、いったいだれに赤ん坊を育てさせようと思ってるのか。何という大胆さだ。何と忌まわしい中傷だ! ところがジルノルマン氏の方は、少しも腹を立てなかった。彼は中傷によってへつらわれた好々爺《こうこうや》らしい快い微笑を浮かべて、その赤児をながめた、そして他人事《ひとごと》のように言った。「なあに、なんだと、どうしたと、いったいどうしたんだと? みんなばかに驚いてるな。なるほど無学な者どもだわい。シャール九世陛下の庶子アングーレーム公爵閣下は、八十五歳になって十五の蓮葉娘《はすはむすめ》と結婚された。ボルドーの大司教だったスールディー枢機官の弟のアリューイ侯爵ヴィルジナル氏は、八十三歳で議長ジャカン夫人の小間使いによってひとりの児を設けられた、真の恋愛の児で、後にマルタ団の騎士となり軍事顧問官となった人だ。近代の偉人のひとりであるタバロー修道院長
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