リユスは狂喜とともに憤怒の情をさえ覚えた。彼は目の中に彼女の姿を包み込んでいた。その恐ろしい陋屋《ろうおく》のうちの怪物どもの間に、神聖なる彼女を見いだそうとは、夢にも思いがけないことだった。彼は蟇《がま》の間に蜂雀《ほうじゃく》を見るような気がした。
 彼女が出て行った時、彼はただ一つのこときり考えなかった、すなわち、そのあとに従い、その跡をつけ、住所を知るまでは決して離れず、少なくともかく不思議にもめぐり会った以上はもはや決して見失うまいということ。で彼は戸棚《とだな》から飛びおり、帽子を取った。そして扉《とびら》のとっ手に手をかけまさに外に出ようとした時、ふと足を止めて考えた。廊下は長く、階段は急であり、その上ジョンドレットは饒舌《おしゃべり》だから、ルブラン氏はまだおそらく馬車に乗ってはいないだろう。もしルブラン氏が、廊下でか階段でかまたは門口の所でふり返って、この家の中に自分がいることに気づきでもしようものなら、きっと警戒して再び自分からのがれようとするだろう。そしてそれでまた万事おしまいである。何としたらいいものか。少し待つとしようか。しかし待ってる間に、馬車は走り去ってしまうかも知れない。マリユスはまったく困惑した。がついに彼は危険をおかして室《へや》を出た。
 もう廊下にはだれもいなかった。彼は階段の所へ走っていった。階段にもだれもいなかった。大急ぎで階段をおり、大通りに出ると、ちょうど馬車がプティー・バンキエ街の角《かど》を曲がって市中へ帰ってゆくのが見えた。
 マリユスはその方へ駆けていった。大通りの角までゆくと、ムーフタール街を走り去る馬車がまた見えた。しかしもうよほど遠くなので、とうてい追っつけそうもなかった。後を追って駆け出す、そんなこともできない。その上、足にまかして追っかける者があれば馬車の中からよく見えるので、老人はすぐに自分だということに気づくに違いない。しかしちょうどその時、思いがけなくもふとマリユスは、官営馬車が空《から》のままで大通りを過ぎるのを認めた。今はもう、その馬車に乗って先の馬車の跡をつけるよりほかに方法はなかった。そうすれば安心で確実でまた危険の恐れもない。
 マリユスは手を挙げて御者を呼びとめ、そして叫んだ。「時間ぎめで!」
 マリユスはえり飾りもつけていず、ボタンの取れた古い仕事服を着、シャツは胸の所の一つの襞《
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